いつの頃からか、ブログを開くと「今日のアクセス数」というのが表示されるようになりました。

その日の、その時刻までのアクセス数ということですよね。

特に気にしているわけではないのですが、自然と目に入るし、そりゃ多ければ単純に嬉しいです ニコニコ

なのに、その日の夜に見た「今日のアクセス数」が

翌日ランク発表後の「昨日のアクセス数」になると、かなり下方修正されるのは何故? うーん

これ、地味~にショックなんですけど。。。ショボーン

 

さて、本題。

岐阜県博物館で展示された 「二王清綱」 に逢いに行くレポなのですが

3回目にして 「番外編」 爆  笑

「鵜沼」からの「本庄」ですアセアセ

 

まず 「本庄大篝火事件」 は皆さまご存知ですよね?

文久3年2月、「浪士組」として京へ上る際、本庄宿で勇さんが鴨さんのお宿を取り忘れ、激怒した鴨さんが大篝火を焚いたっていうお話。

勇さんは土下座して平身低頭謝り、やっと鴨さんの怒りが収まったというあれですね。

 

じゃ、そもそもの話のソースは何なの?

というと、新八っちゃんの 「永倉新八」 なんですね。

大正2年の小樽新聞に連載された、記者の聞き書きです。

その要約 下矢印

 

 

ところがこれね、本庄宿で 「大篝火が焚かれた」 なんていう記録も(今現在)見つかっていないし、他の史料にも似たような記録もない。

どころか、この時点では勇さんはまだ 「宿割」 のお仕事もしていないのね。

彼がそのお役目に付くのは、2月14日。

 

 

近藤勇、佐々木如水、

右両人、道中宿割池田徳太郎手へ相被申候事
  二月十四日記            取締役 
  

   (分部家文書)

 

 

この日のお泊りは、下諏訪宿。

 

 (一番下の矢印は、昨日の記事の「鵜沼」です)

 

実はこの下諏訪宿にお泊りした翌日に、「火の用心」のお触れが出たこともあり、大篝火事件は 「本庄」 ではなく 「下諏訪」 で起ったことなのではないか? という説もございました。

ま、下諏訪宿の記録にもそれ風な出来事は特に書かれていないようなのですが。

 

そしてその後に菊地明氏が取り上げていたのが、この記録。

 

 

十二日清し 三番組小頭軍礼を敗り、岡田盟本庄宿ニ而手違江有之候

   (御上洛御供先手日記)

 

 

つまり、「三番組小頭」である芹沢鴨が軍令を破ったと。

そしてその理由となったのが、「岡田盟」による 「本庄宿」での「手違」であった。

具体的ではないけれど、近藤ではなく岡田の何かしらの失態で芹沢が、軍令を破るようなことをしたのでは?

という事ですね うーん

 

さてさて

「事件」 が起こったのは 「本庄」 か 「下諏訪」 か。

その要因は 「近藤」 か 「岡田」 か。

本当に 「大篝火」 を焚いたのか。

 

どちらにせよこの 「本庄大篝火事件」 は有名ではありますが、「史実」なのかはかなり疑問な出来事であるのです。

 

☆ 「小島角左衛門聴書」に「浪人共、中仙道本所宿ニ而泊り、建札認方不宜ニ付本陣手代切由、風聞御座候」という記述もあり、風聞とはいえ本庄でなにかしらのことがあったとも思われる。

 

 

   令和2年杪春(びょうしゅん)18日  汐海 珠里