昨日の続きでございます
松前落城後我ただちに入城し我兵隊を厳命して略奪をいましめ、わずかに番兵を残して各隊皆城外に舎営せしむ。(中略)
我、二、三の隊士と共に殿中を巡視したるに奥深き所の仏間に藩主の家族侍女等老少の婦人七、八名ここにあり。みな首をたれて暗泣す。我これを慰安し松前家の菩提寺に移し、町役人に命じて諸事斡旋せしめ厚く待遇す。あとで婦人の希望に従ひ藩主の所在地弘前へ渡航せしめたり。婦人等みな我が厚意の措置を感謝して別れを告げたり。
どこかで聞いたようなエピソードだと思いませんか
そう…
昨日も書きましたが、歳様が身重の松前藩主夫人を助けたというエピにそっくり
松前城を落とした時、城下の市中は兵火に罹り城兵四散。城主家族の落人姿はものの哀れをとどめた。中にも藩主の奥方は、まだ年若く妊娠臨月に近く、難を民家に避けて隠れ忍んでいた。
そこへ差しかかった土方の隊士等は、農家に見馴れぬ婦女子の姿に目を止め、踏み込んで発見してしまった。松前家臣の数名ばかり警護しておるなぞは眼中にない。
隊士等は皆猛りにたける血気の荒武者共、それが柳腰花態の附添い御殿女中を幾人もで取囲んだのである。実に危険極まる。
今やまさに狂暴無惨の幕は切って落とされんとした所へ、隊長土方が馳せ付けた。たちまち一同を制止して取調べたるに、藩主の簾中と判り、礼を厚うして労り参らせ…
(聞きがき新選組)
エピソードの要約だけですとニュアンスが伝わらないと思い、長文引用しました。
まぁ、ちょっと講談調ではございますが 有名なものですね。
そしてこのあと婦人たちを、松本捨助さんと斎藤一諾斎さんに江戸まで送らせた、というのです。
その時に、あの金子の違いの件も書かれているのですね。
(金子の差の記事は こちら☆ )
ご存知のように捨ちゃんたちは、仙台から戻っていて蝦夷には渡航しておりません。
実は初めに引用した史料は、「人見寧履歴書」。
遊撃隊隊長・人見勝太郎さんですね。
書かれたのは大正元年。
かなり年月が経ってからの著ではありますが、
「記憶の存する処を自叙して児孫の遺す」
為に毛筆で綴られたもの。
記憶違いもあるかもしれませんが、彼の性格を現すような実直で正義感あふれる記述となっているような気がします。
「履歴書」とはなっていますが、そのほとんどが戊辰の戦いの事。
飾る言葉も、自慢の言葉もなく、また維新後の実業界での活躍も書かれていません。
「聞きがき新選組」はもうすでに皆さまのはお馴染みだと思われるので、説明は省略しますね。
おそらく、ですが
人見さんのことがどういう形かで伝えられ、いつの間にか歳様のエピソードになった
のではないでしょうか。
「美談」であれば、島田さんあたりが書いていそうだし
「土方の隊士等」って新選組の事であったなら、彼らが飢えた狼のように「狂暴無惨」なことをするのは信じたくないし ()
ただ…
ひとつひっかかる事が。
人見さんが率いる遊撃隊は、松前攻略軍には入っておらず、数日遅れての事だと思うのです。
その時まで城中に隠れていて、発見されなかったということはないような気もするし
という事で、「聞きがき新選組」以外に、小島家に残っていないか調べてみました。
(捨ちゃんと一諾斎さんの金子の差の事も、「慎斎私言」にありましたからね)
すると、ありました。
東軍既取函館松前侯夫人避亂・・・
(両雄逸事)
すみません、漢文なので意訳文にします m(__)m
夫人が民舎で乱をさけていたという事を、義豊が驚愕してこれを哀れみ、謝罪して東京へ送った。
というような事が書かれております。
ん~
これをまるっとすべて総合しちゃいますと
藩主は先に松前城から館城に移っていることは昨日書いたとおりです。
なのでその正妻が松前城に残されたとは考え辛い。
火に包まれた城下で、寺や山野に逃れていた藩主所縁の婦人たちが避難していたのかもしれません。
実は松前陥落後は、遊撃隊が市中取締・巡邏を行っているので、人見さん、もしくは遊撃隊士がその婦人たちを発見・保護したのではないでしょうか。
もしかしたらその事を人見さんが松前攻略軍総督である歳様に伝え、びっくりした歳様が
「そりゃ帰してやった方がいいよ」
「だよね~、じゃ本人達の希望訊いて、そこまで送り帰すわ」
な~んて会話があって…
の事かも
(妄想ですっ)
さて、皆さまの判断やいかに
2018年12月19日 汐海 珠里