昨日、初めてインフルエンザの予防接種を受けた珠里です
今までに私を含め家族の誰もインフルエンザに罹った事がないので、あまり必要性を感じていなかったのですが
今年は仕事場にて受けられるというので、受けてみました。
病院は嫌いなんだもん
さて、本題。
今日は、150年前のこの頃の、歳様にまつわるエピソードです。
函館之役、義豊論従士曰、余當死於此笑、汝等則冝乞命於官軍、因与斎藤某者、以三十金、与族人松本某、以十金(後略)
(慎斎私言)
引用は小島守政さんが、「両雄士傳」に漏れた話等を、漢文で書き記したものです。
明治26年~30年にかけて書かれました。
また同様な逸話が、橋本家の備忘録として「両雄士傳補遺」に、読み下し文で書かれています。
内容は、斎藤一諾斎・松本捨助さん離隊に際して、歳様が(餞別として?)金子を渡したというもの。
一諾斎さんには30両、捨ちゃんには10両。
その差を怪訝に思った一諾斎さんが辞退すると、松本は故郷に戻れば親類がいるが、お前は家族も誰もいないからだ、と。
一諾感涙して謝し帰り後南多摩郡中野村の小学教員たり
(両雄士傳補遺)
一諾斎さんは仙台で降伏してから、静岡藩にて謹慎。
赦免されてから佐藤家にて語ったエピソードだという事です。
彼は、明治3年に八王子で寺子屋を開きます。
その後、一度甲州で住職に戻りますが、再び八王子にて生蘭学校を開設し、自らも教鞭を振るっていました。
が、その2年後、62才で病没しました。
南多摩郡中野村は、現・八王子市由木中野。
一諾斎さんは土方家、近藤家、佐藤家とも深い交流があり、明治7年に死去すると、同家らによって八王子市大塚観音堂に顕彰碑が建てられました。
※ 大塚観音堂 2017年9月撮影
※ 斎藤一諾斎顕彰碑 同
佐藤俊宣・土方隼人・近藤祐(勇)五郎さん達の名前があります。
あ~、この時のレポもまだ記事にしていないですねっ
仙台で離隊したのはこの2人だけではありません。
先日も書きましたが、何故この2人にだけ金子を渡したというようなエピが残っているのだろう、と思った時
(いや、伝わっていないだけだという事なのかもしれませんけど)
先に仙台入りしていた歳様に随行していた新選組隊士がこの2人だったという事であれば、それも納得かなぁ、と
2018年11月2日 汐海 珠里