ちょっと間が空きましたが アセアセ

京都霊山歴史館での講演会の続きです ウインク

 

プログラムの3番目 キラキラ

 

閏四月八日、京都三条河原

 

三条河原に晒された、勇さんの首級。

 

 

埋葬地がいくつかある中で、やはり一番の有力説は、京都です。

そして、その京都説の中でも、いくつかに分かれます。

三条河原に晒された後、大坂の千日前にも晒され、粟田口刑場に埋められたとしているのが、西村兼文さん。

また、松村巌さんが「土佐史談」で「西の仕置場」と書いております。

しかし、今まで一番の有力説であったのが

やはり小島家の記録からの、「東山山中」という事ではないでしょうか。

 

 すみません !!

当日、このパワーポイントをメモ、または撮影された方、

明治29年に本田退庵の案内によるもの

というのが、「明治22年」になっていたと思います。

これは佐藤俊宣さんが退庵さんと、探しに行った年です。

申し訳ございません アセアセ

29年が正しいものです。

訂正しておいて下さいませっ m(__)m

 

 

この小島家の記録の事については、アカデミーの座談会と時にもお伝えしましたので、詳細は省きます。

  (その時の記事は こちら☆ )

 

 

☆ 以下権先生講演、編集

 

そしてちょっと不可解なのが、小島家の記録。

「近藤勇之墓」と書かれた略画の横に

「東大谷の傍、京都黒谷の上の山、霊山という山の中央」

と、ややバラバラな場所が書かれています。 ※注!

 

ただトータル的に考えると、、霊山の辺りと思われます。

という事は、まさしくこの「霊山歴史館」の辺りです 目
ただこの霊山は、新選組に殺された、いわゆる勤王の志士たちが眠る場所です。

近藤も勤王であることには間違えはありませんが、あえての言い方においての勤王の志士たち、また坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓がある場所です。

 

土佐の谷干城は死ぬまで、中岡・坂本を暗殺したのは近藤勇、新選組だと言っています。
彼は明治三十年くらいに、ここ護国神社で講演しています。
今井何某が言っているが、あれは違う。新選組がやったんだ

と、言っているんです。
その言ってる時に、近藤勇の墓がそこにありますか? 
あせる

これがずっと百年間、定説です。

私も2年前までそう思ってました。

 

ただ、先ほどの横倉の日記に、近藤の首がどうなったか尋ねたところ

東本願寺の依願に付き、下れし、法主自ら大谷に弔う

と書かれているんですね。

東本願寺の依頼で、払い下げられ、法主自ら東大谷に弔ったという記述で、私はこの話は軽視できません。

そして、この事を頭に入れておいていただいて、次にいきたいと思います。

 

この近藤の首級を調べるきっかけになったのが、この刀です。

 

傳来 近藤所持阿州吉川六郎源祐芳 幕臣新選組隊長近藤勇捕イラレ
斬首ノ上獄門トナル一夜下僕首ヲ盗ミ生前ノ愛刀ナリシ此ノ刀持チテ會津ニ走り
密カニ葬ル 余郷土ノ歴史ニ関心アリ諸々ノ寺社佛閣ヲ尋ネシ所コノ史実ヲ知リ
首級ノ碑ヲ建テ此ノ刀ヲ受ク 
                             陸軍少将 若松市長松江豊寿

 

 

現・霊山歴史館所蔵の阿州吉川六郎源祐芳。

近藤から貰ったという、下僕が持ってた刀です 日本刀
この刀の当時の持ち主と2年前に偶然お会いしまして、私に鑑定依頼されました。
最初聞いた時に、

「鞘書きには、なんて書いてあるんですか?」と質問しましたら
「近藤勇の首持って会津行った」と。
「あ~、有り得ない、有り得ない。首は京都ですよ」
「でも、君は詳しそうだから調べてくれないか」

という経緯で、私が預かったのです。

 

まずは、松江の筆跡鑑定から始めました 筆
彼が書いたという表彰状等を取り寄せたのですが、結果的に一番信憑性があったのが、この自筆履歴書です。

特に名前の筆跡が酷似していることから、本人のものと断定。

そこで次は、松江という人物について、調べたのです。

 


松江は明治5年に会津の藩士の家に生まれまして、最終的には陸軍少将までいきました。
で、会津若松市長になります。
これは大正11年から14年の、3年弱の間です。


この方は何で有名になったのかというと、第一次世界大戦、四国にドイツ軍の坂東俘虜収容所の所長時代です。
第一次世界大戦時は、ドイツ軍は日本軍の敵でしたからね。
中国の戦線で捕虜になったドイツ人を内地に送り、俘虜収容所が点在していましたが、そのうちの一ヵ所が坂東俘虜収容所だったのです。
で、彼は会津藩の子孫だってこともあって、負けた会津藩が斗南に行き、明治新政府に辛酸をなめさせられた子供であった。

やはり負けたといえども国を想って戦う人間だという気持ちが、よくわかっていたと思われます。
武士としての尊厳を持ってる彼としては、ドイツ人の捕虜といえども、非情に人格を重んじ扱いました。
そして捕虜に対し、人道的な扱いをし、パンを作ったりハムを作ったりする事を許可し、また地域の人間とも交流する事も認めました。

今では当たり前になってますが、毎年暮れに演奏や合唱される、ベートーヴェン第九・運命の、国内最初の演奏を行ったのです。
その事を描いたのが、十何年前に、松平健が主役を演じた、「バルトの楽園」です。

 

つまりそんな人格者が、嘘など書くことはない。

当時、彼が神社仏閣を歩いていた時に、

「近藤の刀だよ、首と一緒に下僕が持ってきたんだよ」

と言われて、騙されてもらったのか買ったのか。

その可能性もないわけではありませんが、まずは松江を信じようと、次は会津を調べます。

 

 

※注

この小島家のややバラバラな場所が書かれている事について 星カラフル

やはりどうしても気になり あせる 再度調べ直しました。

そこで私、ものすご~く大きな勘違いをしていたことに、気づいたのです ガーン

その事につきましては、講演会のレポ終了後、書きたいと思います。

宜しくお願いします m(__)m

 

 

   2017年神無月27日  汐海 珠里