①より、続き キラキラ

 

まずは小島家の記録の整理です。

 

新選組の援助者であり、勇さんの義兄弟であった小島鹿之助さん。

この方の四男・誠之進さんが、明治29年の夏に京都に旅行した時、当地にいた本田退庵さんの案内によって、勇さんのお墓を訪ねたとされています。

(その前の明治22年に佐藤俊宣(源之助)さんが、退庵さんと一緒に京都で探していたけれど見つからなかったという記録有)

 

これは、誠之進さんの兄である守政さんが、弟が近藤の墓を京都で見つけて来たと、翌年の明治30年に記しています。

なのでその話は、事実であるらしい事を裏付けているとの事。

 

で、これが表立ったのは、昭和12年6月の新聞記事

誠之進さんが、新聞記者に語った話として掲載されたのです 目

それによれば、

退庵さんはかねてより勇さんの首級の行方を捜していました。

そして誠之進さんが京都を訪れた折、墓(首塚)を見つけたとして、その場所への案内を申し出ました。

彼は、画家の田中柏蔭さんを伴って、そのお墓を訪れています。

そこには、2尺程度の石碑があり、表には「近藤勇之墓」、裏には「近藤勇首級を埋む」と刻まれていました。

また、近くには勇さんの別当の墓もあったといいます。

田中画伯がこの墓を写し取り、誠之進さんがその絵に詩を書いたそうですが、残念ながらその絵は現存していないという事。

小島資料館には、この絵を写したと思われる「近藤勇之墓」の絵が残されています。

 

この写し絵は、「新選組余話」にも掲載されていますし

時々、引用されたりもしていますので、皆さまも目にしたことがあると思います 目

 

そして佐藤家では、

その昭和12年の新聞記事によって、初めて勇さんの首塚が京都にあるという事を知った

らしいのです キョロキョロ

 

ちょっとその辺りの座談会での会話。

 

珠  小島家は小野路村なのですが、このお墓が見つかったという事じたいが、当時日野には伝わってなかったと、私は聞きました。
その辺りは、谷さんどう思われますか?

谷 : 新選組の事なので詳しくは知りませんけれども 笑
佐藤家の史料を見させてもらった時にも、なかった。
あれを紹介したのが本田退庵ですが、その六年前の明治二十二年、
俊宣と退庵が京都に行った時には、お墓は見つからなかったという結論が、佐藤家に史料として残っている。

珠 : そうですね。
谷 : だからその時点では無かった。そう思っています。
で、これ、私の父(谷春雄氏)の意見なんですけれども、あれは後に本田退庵が作ったものだろうと、そういうふうには、言っていました。

権 : 私もそう聞いた

 (中略)

珠 : 普通であれば、私などの考えであれば、佐藤家も探していたのですから、佐藤家や、生家の宮川家にも、すぐ知らせるのではないかと、思うのですけれども、そういう形跡というのはないのですか?
谷 : まったく史料はないですね。
珠 : ないですか? 
谷 : はい。で、どちらも本田退庵が一緒に探しに行って、初めは見つからずに、その七年後に小島家の人が行った時に、「ここがそうだ」と紹介したと、いう話だけなんです。
でもそれを示す佐藤家の史料は、何もありません

 

実は佐藤家では、その新聞記事を見て

「これは宮川家(勇さん生家)にも知らせなきゃ」

と、思ったみたいなのですね。

つまりそれまでは、宮川家も知らなかった?うーん

 

小島家の資料を検証してみると、そのお墓があった場所は

「霊山の辺りではないか」

と権先生はおっしゃります。

 

勇さんは「勤皇の志士」であったのです。

だから、それらの人々が祀られているその地に

勇さんも埋葬されても良いのではないか

そんな「想い」から、退庵さんが供養塔として「建てた」 ??

 

考えれば、京都のその地に

わざわざ「近藤勇之墓」と書かれたものが建てられていたとしたら

すぐに壊されたり、荒されたりしても不思議はないでしょう。

むしろそのまま「ある」方がおかしい アセアセ

「近藤勇の首を埋む」とあれば

どうされるかわからないと思いませんか ?

 

誠之進さんが新聞記者に語ったのは、晩年になってからです。

確かに「墓」は建てられていたのでしょう。

けれどそれは実際に首級が埋葬されていたのではなく

「そうであって欲しい」

「そうであったと願う」

という「想い」が

「そうであった」に変わっていったのではないのかー

 

私はそう思ったのですが、皆さまのご判断はいかがでしょうか。

 

 

なお会津小鉄が、勇さんの首級を会津に持って行った説の詳細、

また、私はかなり信憑性が高いと思っています「横倉喜三次日記」の記述に関しましては

京都霊山講演レポで m(__)m

 

 

   2017年長月14日  汐海 珠里

※ 小島家資料見解についての訂正