剣豪秘話の土方歳三と吉原その一 | 「歳三梅いちりん~新選組吉原異聞」かれん

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「梅いちりん」を描くにあたって、「剣豪秘話」を読み込み、吉原を必死で調べてましたら、「剣豪秘話」のなかで著者の流泉小史氏が知らずに書かなかったか、土方歳三の名誉のためにあえて無視したのか、みたいな吉原ルールを見つけまして、それじゃあ「平成の剣豪秘話」を描いた私はどうしたかと言うと、やはり歳三さんの名誉のために目をつぶらなければ話が作れず(彼が知らなかったことにしました)、黛目線でこの話しを描くと2人の別れはまったく違うものになるそれほどの地雷が「剣豪秘話」には埋まっておりました。


いや、これに気がつかなかったら別にいいんです。知っちゃった以上はどうしようかと、実は連載の最初っからコミックスの直しの時まで頭抱えてました。


でも結局歳三さん可愛さで書かなかった吉原ルールについてはおいおい書いていくとして、まず基本的な吉原小ネタから。


私がマンガの中で描いた吉原は正しくは「新吉原」といいます。


なぜ「新吉原」かと云いますと、「吉原」というのが江戸初期に日本橋葦屋町にありましてあの有名な明暦の大火に合い、1657年の明暦3年に浅草の北に引っ越してきたのでこの名前になりました。


なので浮世絵をよくみますと、遊女屋の通りの火の用心の手桶を積んだ用水桶の屋根のような板に「新吉原」と書いてあったりします。


花魁黛がいました大見世「火焔玉屋」は江戸町一丁目にありまして、大門から入ったメインストリート(ここには引き手茶屋が並んでます)の最初の角を右に折れた左手に見ることができます。


余談ですが、最初調べ始めの頃は火焔玉屋がどこにあるか皆目わからず、ある日あの火焔太鼓のマークの暖簾のある見世を浮世絵の中に見つけ、周りの家並から場所を特定していきました。

資料なんかも今は手元に潤沢にあるので、それはしなくていい苦労だったんですが、調べはじめのころは吉原の地図の漢字やら吉原細見やら見方のコツがさっぱりわからなかったんですよね~。


見つけたときは、すぐに友人に知らせたぐらい嬉しかったです。


そしてコミックスのあとがきにも書きましたが、みなさんもよくご存知のトップの花魁を指す「お職」も「太夫」という言葉も宝暦(1751~64)以降この幕末の頃にはすでに無く、それに変わる一番近い言葉は「呼出し」か「昼三」でした。


「昼三」というのは昼間の揚げ代が三分なので「昼三」です。

「昼三」にも細かく階級がありますが、だいたい格子の中での張り見世はしません。


コミックスの中では、映画などでよく見る格子の中にズラっと並ぶ遊女の絵を私は描きませんでしたが、大見世の遊女というのは揚げ代が「昼三」ばかりなのでこの「火焔玉屋」の格子には誰も並ばないことになるのですが、そこはイメージ大事のまんがとして悩むとこでもありました。


お土産になる浮世絵なんかでは大見世でも張り見世にずらっと並ぶ花魁たちも描かれてますもんね。


それでは並ばない高級遊女にどうやって客が付くかというと、馴染や茶屋からの紹介か、またはメインストリートの仲の町の引き手茶屋の店先で馴染を待ってるときに気に入られ、というケースがあります。


「剣豪秘話」の黛も高級遊女のひとりですから張り見世に並んでいたとは考えにくく、武州多摩の薬の行商をする若者はどういう手段で彼女を見初め通うようになったのかが不思議なのですよ。


コミックスに描いたように、安政の大地震で名を馳せた黛を、仮宅で揚げ代が安くなったのを機に指名したのでしょうか。


それとも最初は誰かに連れて行ってもらったんでしょうか。とても気になるところです。



その二に続きます~。





この新吉原の内容について、違う見解もあると思いますが、おおよその見方としてゆるくお読みいただければ嬉しく存知ます。

また、「剣豪秘話」をまったくの史実として捉えているわけではなく、上記の内容は「秘話」への軽いツッコミ程度に考えていただければこちらも嬉しく存じます。


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