※飢民の供養塔(田布施町:大恩寺)




江戸四大飢饉 - Wikipedia


江戸時代にはまだまだ農業の技術も不安定であり、度々飢饉が発生しています。


特に瀬戸内海沿岸で最も被害の多かった享保の大飢饉(享保17年(1732)8月)は、田布施においても甚大な被害をもたらしました。


まず、8月の風雨不熟と秋からの虫枯れにより、295,700石余りの損耗が発生しました。


当時の毛利十一代史には、「風雨及び蝗災稀世の凶款を以て諸巴の困乏、言に勝るべからず」「(前年の)初秋より紀州、四国、九州、播磨より下、中国筋残らず田地にうんかという虫」


とあるように、西日本全体が被災地となりました。


その上、享保17〜18年にかけた厳冬、疱瘡(天然痘の俗称)も流行する最悪の状態となり、萩藩においては、


総人口の36%が餓死、牛馬に至っては90%が死に至りました。



この時期の田布施町域での惨状は、田布施町にある大恩寺境内の『飢民の墓碑』の碑文から知ることができます。


ルート8〜②飢民の供養塔(大恩寺)


蝗(いなご)によって稲穂は立ち枯れとなり、赤地(不毛の土地)となった田野に穀物は皆無となって、例年より寒さの厳しい冬を迎え、多くの人々は流行する疱瘡を患い、春を待ちながら餓死していった数百人の姿が偲ばれるのであります。





こうしたことからも、当時の庶民の信仰心は厚く、庶民教育も徐々に高揚していきました。



江戸時代には、幕府の法令を受け、その統制の元で人々は仏教を信仰しました。

特にら念仏系の浄土真宗や浄土宗へと帰依する傾向が強かったようであります。


さらに、氏神を中心とする神々への信仰も怠りませんでした。

宝暦5年(1755)に、いもち病が流行した時にも、農民たちが八尋石八幡宮で祈祷をしたように、生活を破綻させる災害への祈祷や、農業経営上での吉凶を占う中心として氏神への信仰がありました。


対称に、村民が仲間うちで私的に祀った信仰対象として『社』が各地に見られます。

これについても種類の記述がありますので、分類しておきましょう。


荒神・・・火難や盗難を防ぎ、稲作や牛馬の安全を見守るかまどの神様、農耕の作神であったとされる。

疫神・・・疫病神のことで、これを助けたり、大切にもてなしたりして災厄から身を守ったとされている。

稲荷・・・商売繁昌、開運出世の御利益を祈るものと理解されがちだが、原始的な作神として信仰された側面が強かった。


そんな中、天保改革の一環としての淫祠解除と称された、防長国内の寺社で寺社所の元禄年中以来の原簿にきさいされていないものは淫祠と称され、天保13年7月、風紀を損じ、藩の施設を妨げる基をなすものとして、12月を限って解除を命じて実行に移されました。

これによって、農民たちが現世利益を祈り、日常生活を充実させる目的で祀った『社』は藩府によって取り払われたようであります。



…と、こんなように、農民の生産力こそが当時の生活力を支えていた時代でもあり、農地の整備と農民を中心として当時の施策が執り行なわれていたことが読み取れます。


様々な出来事や当時の政治、民衆の行動から、特に地元の特性など、学べることがとっても多いように感じます。



こうした記事も、いずれよくまとめて地域の皆さんやこどもたちが親しみやすい資料と出来ればいいなぁと思っています。





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