みなさん、こんにちは。
もうすっかり寒くなりましたね〜。まあそれはそうですよね、もう12月なのですから。
そう言えば一カ月ほど前のことですが、家にいると風が強く吹いていることに気づき、外に干していた洗濯物を取り入れようとベランダの戸を開けると、砂埃と大きな枯れた葉っぱがどっと部屋に流れ込んできたのです。
見ると、洗濯物が鯉のぼり状態になってバタバタしていたので慌てて取り入れ、戸を閉めました。
家の前にある木々も激しく揺れて枯葉が飛び交っています。風が台風並みだな、と思い空を見ると、真っ黒な雲から稲光が光っているのが見えました。
変な天候だな、と思いながら、部屋に舞い込んできた枯葉を拾い、取り入れた洗濯物をたとみました。たとみ…いや、たたみ、かな、ん、たたみ、たとみ、あれ?
まあいいか、話を続けますね。
正確に時間は覚えていませんが、けっこう長い時間荒れ模様が続いていたように思います。
そして、外の状態が落ち着いてきてからふとスマホを開くと、竜巻注意報という文字が目に入りました。
ちょうどこの地域に竜巻注意報が出ていたようです。
なので、あれは竜巻だったのかも知れません。
これまであまり竜巻というのを身をもって体験したことはなく、記憶にあるのは、運動場などでたまに発生していたつむじ風ぐらいです。よくつむじ風が発生したら、うわ竜巻だ!と言ってその渦の中に飛び込んで目や口に砂が入ったりしてましたが(笑)
台風、竜巻、地震、津波、火山の噴火、当たり前のようにこの地球上で生活していますが、これまでにもそのような被害は世界中で起きています。
そしてそのような自然災害も、スピリチュアル的には我々の意識と密接な関係があると言われています。
自然災害だけでなく、さまざまな問題が地球上には起こります。その原因の多くは、私たちが便利さや経済的豊かさを追い求めることによる人間的エゴ(意識)から引き起こされていることは言うまでもありません。
それが意識的にしろ無意識にしろ、人間の意識は、この地球に多大な影響を与えています。
ですので、この世界で何が1番重要なのか、と考えれば、それはやはりわれわれ人間の意識だと、そのように思えます。
最近、これまで正しいと思っていたことが、実はそうではなかったと思われるような事柄を多く見聞きするようになってきました。
子供の頃は、テレビなどで政治的なことが討論されたりしているのを見て、この社会が良くなること、人々が幸せになるこを大人達は真剣に考えてくれているのだな、というふうに感じていました。政治は国民の幸せのため、正義の為に行われている、というわけです。
しかし、実際は少し違ったようですね。それぞれの個人的な思惑というのがあり、それがこの社会に反映されてきたのです。
とくにSNSの発達により、今まであまり目に触れることがなかった事実がそのような媒体を通して公に語られる時代です。
そういう情報に触れるにつれ、人間のエゴによる闇がこれほどのものだったのかと、多くの人が感じているのではないでしょうか。
なぜ戦争が起こるのか、戦争というものの正体は、まさに人間の意識が生み出す闇の部分です。
その裏に隠された思惑は、何も正義などではなく、人間のエゴが生み出した際限のない欲望です。
その一部の権力者の欲のために、兵士は正義の名の下に最前線で戦い、そして、幼い命までもが、その戦争の犠牲になるのです。
考えたくもありませんが、その戦争を喜ぶひとたちもいます。それがお金が支配する我々社会の現状です。
そのように…レンタカー…ですか。
レンタカーというのは、この肉体のことを指しているのですよね?
たくさんの命が個人的な欲望の犠牲になっています。嘆き悲しむそのような苦しみを体験している人達もいるわけです。人をレンタカーなどに例えるのは、あまりに軽く考えすぎではないですか?
重い考えを軽くすることがそんなに悪いことなのかね?
重いですか…現実は楽しいだけではないですよね。実際戦争は起こっているわけだし、さまざまな問題に悩み苦しんでいる人達もたくさんいますよ。たまたま私はそんな深刻な状態じゃないだけで…軽く考えることは悪いとはいいませんが、それも時と場合です。深刻に捉えることも必要ではないですか?
どのように考えようとあなたの自由だよ。深刻な状態じゃないのに深刻な状態にわざわざ周波数を合し深刻な現実の中に身を置くのも、もちろんあなたの自由だ。
波動が、周波数が、といいますが、もちろんそれもわかります、しかし人間である限り…
人間である限り物事を深刻に考えないといけないのかね? 世界では大変なことが起こっているのに自分たちだけが楽しむのは不謹慎だと?
それも違う気はするのですが…なんて言うか、気が引けませんか? 大変な人たちがいる中で…
もちろんそれも悪くはないよ。あなたが楽しむことを控えることで世の中の役に立ち、あなた自身も満たされて行くなら。
さて、楽しい話をしようとしていたのだが、楽しむことを控えると言うのなら今回の対話は辞めた方がいいかな? 別に構わないよ。
いえ、では話を聞きましょう。もちろん分かっています。楽しむことを否定しているわけではありませんから。ただレンタカーなどといきなり口を挟むから…まあいいですけど。
ではレンタカーの話をしましょう。この肉体は、あなたがたがこの世界を体験するために選んだ、期間限定で契約しているレンタカーのようなものだ…そう言いたいわけですよね?
だが、これから話をしていく内容を考えると、レンタカーでは少々機能不足だ。車に例えるのはやめよう。
…じゃあなぜレンタカーなどと耳元で、いや脳内か、なぜそう脳内で囁いたのですか?
軽い感覚で話を進めようと思ったのだよ。しかし良かったね、あなたのボディが人間で。もし車だったとしたらそのようにコーヒーを味わうこともできないのだからね。
…素直に感謝しますよ、あなたの言うように身体が車でなくて。ですがもしこの身体が車ならガソリンがとても味わい深く感じたと思います。
なるほど、しかし車と言っても、単に今あるような車ではなく、それがロボットのようなものだったらどうする?
トランスフォーマー(SFアクション映画、金属生命体が人型ロボットに変形する)みたいなってことですか?
そのような身体でコーヒーを飲みたいと思うかどうかは別として、そのような形態で生きるのも面白いとは思わないかね。
いったい何を話そうとしているのか知りませんが、もうすでに本題に入っているのですか?
もちろんだ。あなたが話し始めた冒頭の部分からすでに本題に入っている。
更に言うと、あなたが先日観た「ゴジラ−0.1」からだ。
そんなところからこの対話に繋がっているのですか?
個性と言うのは実に面白い。
なんですか急に?
この対話(あなた)のことだよ。あなたは、世界中で苦しんでいる人がいる中で楽しむことが…と言ってたわりには、映画などを楽しんでいるのだからね。
まあ、それはもういいでしょう…。しかしゴジラが今日の話にどう絡んでくるのでしょうか?
ゴジラを観たのだろ?感想はどうだね。
ゴジラは子供の頃よく観ていました。なのでなんとなく子供映画だという認識を持っています。でも興味があったのは子供の頃で、大人になってからはあまりこういったものには興味がわかず、これまでにもハリウッド版のゴジラやシンゴジラなど話題になりましたが観たことはありませんでした。
ですが、今回ゴジラの話題を目にすることが多くて、そんなに面白いのかなぁ、とちょっと興味を持ってしまったわけです。
子供の頃のゴジラはもっと内容が子供よりだった気がしますが、このゴジラはそんな感じではなかったですね。映画は人によって観る角度や感じ方が違います。人間ドラマも描かれてはいましたが、私は単純にゴジラの迫力を楽しみました。ゴジラはCGらしいですが、昔のように被り物感がなく、なかなかの迫力でした。
あなたはあのような世界を信じるかね?
信じる? 映画ですよね?しかもゴジラはフィクションですよ。
だがあなたがあの世界に入ればそれは現実としての体験になるよ。
あの世界に入れば…とは、それはどう捉えたらいいのでしょか。
あなたは映画としてそれを外から見ているので、それを現実とは認識しないが、だが、あの中にいればリアルな体感を伴う現実として体験するだろうということだよ。
それはそうですが、でもあれは現実ではなく映画として作成された作りものです。役者は演技をし、ゴジラはCGで作られたものです。それがあの映画のリアルな世界です。そんな映画の裏側の中に入ったらリアル感など余計なくなりますよ。
えらく現実的な見方をするね。少しはこちらの趣旨に話しを合わせてもらいたいものだが。
それは失礼しました。その趣旨が分かればいいのですが…
もちろん映画の裏側はその通りだ。しかしあなたはその映画を観ている間、実際そこで起こっているような視点でその世界に入り込み、そのゴジラの迫力を感じていたのではないかね。
まあ、入り込んで観ていると言われれば多少はそうかも知れませんが、なぜなら入り込むことでリアルさが深まりますから。でも現実とはやはり違いますよね。映画の中では人々は混乱して逃げまどっていますが、私は冷静にただ座って観ていられますからね。
なぜ冷静でいられるのだね?
だって現実ではないし、私は映画を観ている立場でじっさいその中にいるわけではありませんし…
ハイヤーセルフ(魂)の視点もそれと同じようなものだよ。
あなたは今この世界をリアルな体験として感じているが、魂は冷静に一歩下がってそれを観てるという感じだ。
しかし魂が視野を狭めてその世界を覗き込むほど、そこにリアルさが増してくる。先ほどあなたが言った、入り込むほどリアルさが深まる、というのと同じだ。それを求めてあなたがたはここにいるわけだからね。
覗き込むほど、とは、魂は視野を狭めると周りが見えなくなるから、ということですか?
もちろんそれは比喩だが、あなたの知識ならなんとなくわかるだろう。この世界に魂の一部が入り込む、と表現してもいいかも知れない。その魂の一部、それが今ここにいるあなたなのだ。
つまりこの世界に入り込んだ魂の一部、それが自我である私ですね。その自我がこの世界を現実だと思い込んでいるからだと言うわけですか?
例えば、同じ映画を観ても小さな子供はあなたより、よりゴジラの躍動感を感じて身震いする。
幼くなればなるほど現実と映像の壁が薄れ、その映像の世界に入り込んでいき、より臨場感が高まるのだ。
確かにそうですね。小さな子供にはより刺激的な体感が伴うと思います。それはやはり物事の理解度の問題ですよね。この世界の仕組みや、そして経験値が違うから…
これは単なる映画で映像でしかない、あなたの思考のベースにはその考えがある。幼い子供はいちいちそのようなごたくを並べず、その映像の世界に入り込んでしまう。だから大人とは臨場感(リアルさ)が違うのだ。
つまり、この世界に対するあなたがたの意識もそれと同じことが言えるのだよ。
同じ映画を観ても、大人と子供では感じ方が違うように、この現実もあなたがたの理解力、精神的な成熟度によって、見え方、感じ方が違ってくる。
ハイヤーセルフとあなたの関係はまさにそうだ。
あなたがこの物質的なものごとからどれだけ臨場感を得るかは、この世界にどれぼどハマるか(現実として)によって変わってくる。
そして執着の強さによってその対象の存在感も大きく変わる。
あえて執着と言う言葉を使ったが、ネガティブなことだけを指しているのではなく、道端に咲く草花や小さな虫などに意識が向く人もいれば、それがそこにあることさえ気づかない人もいると言うことと同じで、何があなたの世界の中でリアルさを強めるかは、その興味の度合いによるとも言えるのだ。
なので、ネガティブなものごとも、ポジティブなものごとも同じで、意識(思い)の強さで、あなたの世界に与える影響力が違ってくる。とくに執着というのは、そのように存在をより強固にする強いエネルギーになるのだよ。
なので、意識をどこに向けるか、どのように向けるか、それを意識してみるというのも大切だ。
確かにそうかもしれません。ですが先ほどのゴジラの話に戻りますが、やはり現実と、映画などのように作られた映像、つまり現実とそのようなバーチャルな世界は違うと思いますよ。
それは今のあなたが目にするバーチャルな技術を見ての感想だろう。
かも知れませんが、でもバーチャルでは感覚が伴わないのではないですか? 肉体ではなく意識だけですから。触っても固さなど感じられなければ現実と同じというには…
あなたは夢の中で壮大な実験をしたことがあるのではなかったかね? 夢の中で現実とどう違うか確認しようとして、机や壁を触ったら現実と同じように固かったと言っていたはずだが。
壮大なってわけではありませんが…明晰夢を見れば夢の中がどのようになっているのかいろいろ調べてみたくなるのです。でも夢の中でも夢だと気づかないことの方が多いですね。
夢は、あなたの意識が見ている世界だという認識のはずだ。リアルな肉体がそこにはない世界なのに、なぜ現実だという認識で夢の中にいるのだろうか。どうしてそんなあやふやな夢の中で夢と現実の区別がつかないのだね?
いや、それがほんとに不思議です。
この肉体を持った物理的世界の感覚は、あなたの意識に刻み込まれている。だから肉体がなくとも、これが現実だと脳(意識)が認識すれば、実際肉体を持っているのと同じような感覚を伴うのだ。
あなたが経験したことはどのようなものであれ意識に刻みこまれる。肉体に何かが触れることだけでなく、怖い、悲しい、と言った意識的な感情であってもそれが胸の苦しさや痛みと言った肉体的感覚として現れる。そして、あなたが経験したその感覚を意識そのものが覚えている。それは夢の中でも同じで、夢の中のあなたにはリアルな肉体はないが、夢の中でも同じように肉体的感覚を感じるのだ。
つまりあなたの意識はその肉体的感覚を覚えていて、肉体がなくても、あなたが人間として生きている意識があれば、その感覚を体感することが出来るのだよ。
なのでバーチャルな世界であってもこの肉体を持った現実と変わらない体感を得ることは可能なのだ。
実際あなたが現実だと思っているこの世界も、そのようなバーチャルな世界だったとして、それをあなたがたが果たして分かると思うかね?
では現実とは何ですか?
全ては幻想であり、そのすべては現実だ。
あなたがたの本質は魂だというのはなんとなく分かっていると思うが、魂は肉体のように物質的なものではない。
なので、物質的感覚を学ぶために、あなたがたは肉体と言う乗り物を利用して、その独特な感覚を体験しているのだよ。
肉体的感覚を知らないと固さも柔らかさもわからない。例えば、夢の中でさまざまなことが起こっても、その肉体的感覚というものを知らなければ、その夢の世界は、硬さも柔らかさも熱さも冷たさも、胸の痛みも苦しみも、そのような感覚が伴わない状態だと思えばいい。
火を触っても熱さが感じられないということですか?
火とはどんなものかという知識だけで、肉体的感覚を知らないのだからね。それでは刺激的な体験はできないだろう。だからあなたがたはこの物理的な世界を体験しにやってくるのだ。
人生の目的は、ただ、幸せに暮らすだけではないというのは、そう言うことで、色々な経験を通してさまざまな感覚を味わうことなのだ。
だから魂(本質)の意識では、苦しみや悲しみは、悪いこと、ではないのだよ。
だからと言って戦争などを肯定してもいいのですか? このような悲惨な経験も、これは魂的には悪いことではない…だからいいんだ、、、それはやはりおかしいとしか思えない。
人としてのモラルが問われるところだね。その判断はあなたの視点からあなたの感じるように捉えればいい。だがあなた方の常識という概念で物事を捉えようとしても真実はなかなか見えてこないよ。その常識は何者かの都合の良い世界を作る為にあなたがたに刷り込んだものだから。
難しいですね、これだけ情報が氾濫している中で何が真実かそれを見極めるのが。先ほど言っていた、全ては幻想であり、そのすべては現実だ、というのをもっと詳しく知りたいのですが。
幻想の中に現実がある。現実というのはあなたがたの体感だ。夢の中でこれは現実だと疑わなければ、それはあなたにとって現実以外の何ものでもない。しかし、その夢の中でこれは現実ではなく夢だ、と気づけば、その現実にリアルさが無くなってしまう。
その空間に逃げ道ができるからだ。
それではとたんに映画になってしまうのだよ。
恐れや不安などというのは、これは現実だと思っているからその感情に力を与える。だが夢だと思えばお化けがあなたの前でどんな恐ろしい姿で現れても笑っていられる。
それではあなたはリアルな恐怖を体験できない。
意識と言うのは空想と同じだ。空想では何かが足りない。なのでその空想の中で現実という世界を創り出す。現実だと思いこませる世界だ。
その1番効果的なのが、忘れる、ということだ。
夢の中でどんなバカバカしいことであってもそれが夢だと思わなければ、あなたは現実としてそれを体験する。逆にそれがどんなリアルなものであっても、それが夢だと知ったなら、あなたはもう幻想としか感じられない。
大きな崖っぷちにいたとしょう。あなたはここが夢だと知っていたなら、なんの躊躇もなく、その崖から飛び降りるだろう。
だがここが現実だと思っていたら、あなたは足がすくみ恐怖心というものを存分に味合うことになる。
そのように幻想の中にいながら現実を体験するには、現実だと思い込むことがとても効果的なのだよ。
仮にこの世界で、この現実から目覚めた状態で生きることは可能なのですか?
夢で中で目覚めるのと同じだとも言えるが、幻想だと知っている状態は、今のあなたが知識として「分かる」というのとはまた違う。その目覚めた意識を持ったまま人間の姿をして存在することは可能だ。
違いは肉体から去ることに恐怖はないという点だ。自分は何者で、ここはどのような世界か理解している。それはもっと高い意識レベルの世界なのだが、この地球でそれを体現することもできる。
だがあなたがたのように物事に執着しないので、あまり人間ドラマに関心がない。ブレずに、今ここにいる目的に意識を向けていられる。
だがそのような意識状態ならこの地球にいる意味はあまりないだろう。
ですが私たちはそこに向かっているのではないのですか?
向かう道を明確にするのはいいことだ。あなたがこうなりたいという意思をもてば、それをこの現実に創り出すことができる。
この世界には実にたくさんのものがあるだろう? もちろん、あなたにとって悪だと思えるものも含めて。
それぞれが自分の創り出したいものを作っているのだ。それがこの世界なのだよ。
その中であなたは何をしたい? どのように生きたいのだね。
あなたの気に入らないものを作りだしている他人を批判したいのだろうか。
なら存分に批判すればいい。それがあなたのしたいことなら。
あなたは、ここで何をしたいのか、ということが大切なのだよ。
その選択肢は無限にある。
幻想が現実…この世界は現実なのですか、それとも幻想なんですか?
今ここにいる、それ以外に何が必要なのだね。
幻想であろうが現実であろうが、あなたは今ここにあなたという個性で存在している。
あなたはその個性で珈琲を飲みたいから飲む。だがここが幻想だとするなら、あなたは珈琲を飲まないのかね?
現実だろうと幻想だろうと、あなたは珈琲を飲みたいということに変わりはない。
なら飲めばいい。その風味をこころゆくまで味わえばいいのだ。そこに理屈は必要だろうか?
あなたは10年間刑務所で過ごさなければいけないとすればどうする?その中で嫌々苦悩しながら過ごすか、それともその状況を楽しむか、意識をどのように使うかはあなたしかできない。
なので、この地球でどのような意識で生きるか、その選択はあなたにある。
そしてこれがとても重要なのだが、あなたの意識(周波数)で体験することがかわる。環境が変化するのだ。
それを知っていれば、あなたはどこにいようとも、その意識を使って物事を変化させることができるのだ。
環境に支配されるのは、その作られた常識や価値観をあなたが受け入れているからだ。支配される環境を、それが常識だとあなたがたは受け入れている。
その周波数で生きているから、その世界があなたの目の前に居座り続けているのだ。
それがあなたに必要なものならいいが、あなたにとって必要ではない周波数なら外したほうがいい。
例えば、私はツイてない、私は運が悪い、そのような思い込みは本当にあなたには必要だと思うかね?
そのような周波数で生きることがあなたの経験したい物事を引き寄せるかどうかをよく考えてみた方がいい。
あなたの持っている周波数があなたが体験する世界を形づくるということを知っていれば、あなたはどのように物事を見て、どのような意識で生きるべきか、それをあなたの意識でコントロールできる。
自分に対する評価を変えてみなさい。
話を聞いていると、現実というのはこの世界のことで、あっちの世界が幻想に思えますね。物質的な感覚はこの世界のものであるなら、まさしくそれが現実と呼べるのではないでしょうか?
だから言ったではないか。幻想の中に現実があると。
だがその幻想そのものが現実なのだよ。すべてはその中の出来事だ。
すべては意識だ。ものごとを生み出すのはその意識だ。物質的な世界を作り出すのもその意識だよ。
意識は空想だと言ったが、どのようなことも意識の中で生み出すことができる。そこに物理的法則は何も関係がないのだから。
その空想(意識)の世界で形作られたものが現実というものを生み出すのだ。
分かるかね? 源である意識の無限の創造性を。
あなたの現実も理屈は同じなのだ。
あなたの意識があなたの現実を作りだしているのだから。