伯父の訃報
昭和55年1月8日の寒い冬空の下、兵庫県西宮市鳴尾町に私が産まれました。
長男ですので、最初は名前をつけず、赤ちゃんと呼ばれていたそうです。清作爺ちゃんが、つけてくれた名前。寿夫。初の男孫が正月に産まれ落ちたという理由で、寿夫と名付けられました。
ヒサオとかスミオと間違われた経緯もありますが、正式にはトシオと読みます。名前の中に寿という文字が入っている事は、気に入っています。
先日、命を亡くしてしまった伯父に、生前、お見舞いの電話をしたところ、
「寿夫という名前。清作じいさんがつけた名前。大切に使えよ。社会貢献する様に。くどくなるが頑張ってチョ。」
とラインでお言葉を頂きました。
「伯父さんの言葉、有り難く頂きました。長生きしてください。」
と返信すると、
「余り儲けに走るな。堅実にやれやれƪ(˘⌣˘)ʃ」
と、返事が帰ってきました。
最後まで残された者のことを考えていた様な人でした。伯父との思い出は、九州の田舎に帰った時に、何度か口を交わした事と、
「最近の若い者は、というけれど、最近の古い者もどうかと思うねぇ。」
というコマーシャルに、
「誠になぁ。」
と頷いておられた事が思い出されます。
私が北大で遊んでいた時に、電話を頂戴した事もあります。
「九大じゃいけんのか。」
と悩ましげに受話器越しに声を伺った事を思い出します。
先日、従姉さんから、生前の伯父が歌っている映像を頂きました。歌がお好きだった伯父が、ホテルで参列している人たちの前で、お上手に歌っていらっしゃいました。その苦労も練習の成果も歌には出ていた様に思います。
勿論、映像は大切に保存させて頂きました。
私の父の兄に当たる伯父は、我々にバトンを繋いでくださいました。
来週、四十九日の法要に向かいます。
その席で、言えないと思う事を、照れ隠しにここに認めました。
ここには、書いていないもっと親い親族の話も伺いながら、最後のお別れをして、ご先祖の墓に手を合わせて来ようか、と考えます。
長文になりましたが、伯父の人生を語るのに、私一人では、語り尽くせません。法要の時に場を弁えながら、伯父という人物が立派に生きた証を目の当たりにしようと思います。
悔しくもあり、寂しくもありますが、私に出来る事は微力ながら、伯父との思い出を深く掘り下げて、生きている者同士の絆を深める事くらいです。
最後に一言。大きな存在を亡くした三人の従姉さん。最後までお疲れ様でした。
こういった事をブログにするのも、いかがなものかと思いましたが、この訃報を心からお悔やみ申し上げます。
小笠原寿夫