日本習字の八段位を受験して
2003.7.31
上田 光代
2003年7月19日(土)・20日(日)、京都宇治の心華寺に於いて1泊2日の日本習字の八段位試験を受験しました。全国から180名の参加でした。試験は理論と実技の2本立て。
実技試験は13科目。活字の文字から“ひらがな、四字、5字の楷書・行書・草書・隷書、六朝体楷書、中字の楷書と行書、臨書、かな、条幅の楷書・行書”を書きます。
詳細は以下のとおり。
いよいよ出発。7月19日(土)9:07分名古屋発に乗車。
名古屋の新幹線乗車口では“JR博多駅が冠水のため博多への旅行はキャンセルしてください”のアナウンスが流れる。そういえば昨日のNHKのラジオニュースで梅雨開け前は大雨が降る。西日本は19日・20日あたりが大雨でしょう。と言っていたのを思い出す。私は雨に向かって進むのですね。
前日に墨を準備する
かなや草書を書くときの墨は、筆の運びを滑らかにするためやや薄めに。行書はそれよりも濃く。
楷書・ひらがなはどっしりとした黒々とした墨で書きたいものです。
試験では濃い墨を準備し必要に応じて水で薄めて調整します。
さて、墨を磨り始めて1時間後。もうちょっと濃い墨にしようと墨を再セット。墨磨り機は2本の墨を3cmほど離してユルユル回る砥石つきのお皿にセットします。
スイッチを入れ磨り始めた直後に1本が固定から外れポテッと横に倒れた。
墨磨り機を使用するには、やや限界の小さい墨であったかとすぐに反省。 ↑心華寺にて
がお皿はユルリユルリと回っている。
アッと声を出す間もなく倒れた墨は隣の墨に追突。
エッと思うまもなくお皿はバランスを失った。
お皿を受け止めようとした私の手も悪い要素となり、おかげでお皿はひっくりかえりました。
180㏄の墨はまさに床の上で黒い海となりました。
いつもなら床に新聞紙を敷いて墨を磨るのに。今日に限って・・・・無防備でした。
また墨磨り機は棚の中段目で作業。
そうです。下の段にも飛び散りました。
こういう時に限ってドックフードの袋の口が開いていたりして・・・。最後に餌をあげたのは誰!
それにしてもワンちゃん、ゴメンね。そしてこの一言で終わる私を許して・・・・。
さらにおもちゃ箱も被害をうけ、墨撤去作業に1時間ほど費やす。
その後、磨り機にセットできるように小さい墨を接ぎ足して高さを作る。
そのため墨をボンドでくっつけるための乾かしに1時間費やす。
夕方6時から2度目の墨磨りスタート。ちょっと心配。接ぎ目からポキッと折れるかも。
大丈夫そう。ユルユルと調子よく回っている。
ホッとした時に電話が鳴った。
現指導者の大宝支部の岩瀬奈美先生から「いよいよ明日ですね。頑張ってください」の激励コールを受ける。今起きたての墨事件を他人事のように2人で笑う。もう過ぎたことですもの。
ところが過ぎてはいなかった。墨をすり始めて1時間30分たったところで墨の濃さをチェック。
アレッ・・・? 墨の濃さが超薄い!果てしなく薄い!
墨磨り機のアームが休めのままでした。
3度目のトライ。なんだかんだで夜の10時にやっと墨の準備完了。
教訓!小さくなった墨はきちんと補強して使用する。
ここは京都
2003年7月19日、京都の平安神宮の近くの観峰会館に午後2時に集合。受付は午後1時から開始。
私は新幹線の都合で午前11時には観峰会館に到着。
たっぷり時間があるのでたっぷり観峰会館内の展示を鑑賞する。
今回3回目の来訪ですが、こんなにゆっくりしたのは始めてです。
館内では観峰先生の作品の展示はもちろんですが条幅の揮毫ビデオ(六朝体・行書・草書・隷書)がほぼ横一列に並んだモニター画面が4つ。上映時間3分ぐらいものものを繰り返し流していました。
ビデオを見ながら、墨ってあんなにドロドロぐらいの濃さなの?
今回持ってきた墨の濃さは大丈夫かしら?ちょっと心配。
とか隷書の揮毫ビデオに目をやれば今月の条幅の課題は隷書だ!
アレッ条幅時の隷書の時の筆使いが違ってた!など凡人は妙なところに感心、感激しておりました。
ところで私は、八段位の試験後は“作品作り”がしたいと思っておりまして、揮毫の中に、たまたま“壽(現代文字では寿)”の文字を含む作品も含まれていました。
めでたい字なので“色紙”や“扁額”作品にいいですよね。
飽きもせず30分~40分ほど行書のビデオを繰り返し見ジーと見入ってしまいました。
ちょうどビデオの前に椅子があり休憩するには適した場所でもあったのですが・・・。
喜んでください。ビデオ揮毫の作品の中の文字で、この日、夕方(私には“夜”でしたけど)の条幅の試験課題の文字の中に「龍」、「海」、「雲」、「山」の4文字がまさに出ましたよ!
冷静に考えれば、中国の漢詩やらが題材になっているわけですから、これらはよく出てくる文字でしょうけれど・・。
1日目の試験は夕食後、午後6時からスタート。条幅が終了するのはなんと、9時過ぎ(いつもなら寝てる時間!よわい○○才。その時間に寝ている今の生活も怖いけど)。
さらに精神のお話(和尚様のお話は元気になるので好きですけど、ときどき難しくって今回もわからない箇所あり)。
入浴、消灯は11時のスケジュール。
実際にこの日、布団に入ったのは12時過ぎてから。
私には半年前倒しの大晦日バージョンでした。
夕方6時から理論テスト。
過去問題の平成四年から平成十年までの内容と比較すると、理論テストはびっくりするほど簡単な印象を受けました。でも、しっかり間違えましたけど・・・。
理論テストの構成は、変体仮名読み、草書の読み、書道史の大きく3つで構成。
変体仮名は、日本語を漢字に当てた字のこと。
例えば、“だれをかも→(おもいっきり略体化した)多連越可裳”。
試験は、略体化した漢字をひらがなに直す問題です。問題数は20問。
変体仮名については、変体仮名の①~⑤をちゃんと学習した人はできたでしょう。
私は、しっかり間違えましたけど。“へ”(部のおもいっきり崩した字)」と“ち”(千を崩した字)を。
ビデオの中で観峰先生が「作品を作るには一つの文字に4字~5字、覚えておくといいでしょう」と言われていたことを思い出します。例えば“あ→「安」、「阿」・・”という具合。
ところで“かな”っていつごろできたのでしょう。
今から1600年前に中国から漢字が伝えられるまで、日本には日本語を書きあらわす文字がなかったといわれています。漢字が伝わると、日本人は漢字の音や訓を利用して日本語を書き表す方法を考え出しました。“万葉がな”ですね(例:波名=花、比登=人)。
その後、漢字をもとにして“かな”が作り出され平安時代には広く使われるようになります。
ひらがなは漢字をくずして書いたものをさらに簡略にして形を整えたもの。
漢字が男性用の文字だったのに対して、ひらがらは女性が私的な手紙や和歌などを書くための文字とてして使用。後に広く用いられるようになりました。
平安時代には、みなさんご存知の長編小説、かな文字と漢字で書かれた400字の原稿用紙で約2000枚の源氏物語を紫式部が書いたのですね。
草書の読みは、過去問題をちゃんと学習した人はできたでしょう。問題数は20問。
わたしは、「草書の早学び」カードが好きですけど。草書がまんべんなく記載されているので。
因みに「聖」という時が読めませんでした。強引に“霊”と読んでおきました。う~む。
書跡を見て書跡名と筆者名を記載する問題は、5問×2。
よし!ここは完璧、と思ったのもつかの間“伝”ものは“伝××××”と記載しないと減点なんですって。試験が終わって5分後に知りました。
日本の書跡は“伝もの”が多いですね。今回は「橘逸勢(タチバナノハヤナリ)と藤原行成(フジワラユキナリ)」が該当してました。2人分、減点ですね。う~む。
ところで藤原行成(フジワラユキナリ)といえば「粘葉本和歌朗詠集(デッチョウポンワカロウエイシュウ)」。
書道の高段位受験者の方には知る人ぞ知る“人と作品”です。今回の試験の書跡問題もコレでした。
ところが茶道では三色紙の一つとして藤原行成は「升色紙(マスシキシ)」のほうが有名。
所変われば・・・・・ということでしょうか?
因みに三色紙は、伝小野道風の継色紙(ツギシキシ)と伝紀貫之の寸松庵色紙(スンショウアンシキシ)」。
歴史は中国の時代名を漢字で書くものでした。
人の名前まで語呂合わせをし、せっせと覚えた私でした。
「明るい文鳥を投棄したらオー沢山だった。なんてね。
“明(時代)るい文鳥(文徴明ブンチョウメイ)を投棄(薫其昌トウキショウ)したらオー沢(王鐸オウタク)山だった。”
ところで今回は出ませんでしたけど「北宋(ホクソウ)」の「宋」の漢字を前日まで「宗」の字と思い込んでおりました。思い込むのは私ぐらいでしょうか?
因みに北宋時代は王ギ之(オウギシ)大好き!な太宗(タイソウ)の庇護のもと書道が空前の発展をした時代。
実技テスト:条幅
活字で出題された同一課題を行書と楷書(六朝体)で書く。時間は60分。用紙は4枚配布。うち各1枚ずつ提出。
私は、席順が一番先頭列のおかげで条幅を書くときも、明かりは十分、圧迫感もなく楽しく書かせていただきました。が、さすがにムンムンの講堂では最後はちょっと気持ちにムラが。
最後に書いた一枚は楷書作品のはずが行書風に。
講堂の構造上、冷房が入ると一気に冷える。時間を目安に入れたり、切ったりを繰り返す。
冷房が入る前の送風の風で紙が舞うのを防ぐため冷房は途中で切られたまま。
作品の上に汗がポタポタとしたたってしまった方もいるようでした。
試験先の心華寺の印象
試験先の心華寺はいろいろ前評判を聞いていたので覚悟はしてましたけど、どっこい、よかったですよ。よかったというと語弊があるかもしれませんが・・・・。
修練所という施設であればこんな感じかな。
夕食は豪華!でした。お寺さんなのに大丈夫?って思いました。
お刺身、焼き魚・・・・。湯葉もあり美味でした。
翌日の朝は、おかわり自由のおかゆ。それと漬物3種のみ。
睡眠不足状態の受験者の胃にはやさしいと思います。食事は椅子でした。
ところでお茶は常時、飲み放題。お茶は温かいのも冷たいのも用意されておりました。
試験を終了するたびに私はお茶を一気飲みしました。
ただ、お茶のペットボトルは持参したほうがよいと思います。
お茶のフルサービスは夕食からスタート。それまではなかったので。
そうそう部屋は12人部屋でした。私は食堂の2階。
襖一つ隔てて隣にも部屋。廊下が一本あって5部屋並ぶ構造。ありがたいことに一番奥の部屋でした。
でも夜は、はっきりいって寝られませんでした。
私は普通の旅行でも寝られないのですけどね。
多分、神経は高ぶってはいるは、人の声はするは、部屋は明るいは・・・ですものね。
試験場、食堂、お風呂場などの施設は点在しており靴を履きなおしての移動。
おかげで夜の活動はボンボリの飾られている庭を眺めながら移動するなどほんのり情緒あり。
京都の気候
2日間、京都は曇りほんのちょっぴりの雨。さらに盆地ならではの蒸し暑さもなく、ここは本当に京都?と思うくらいの絶好の気候でした。わたしの体にはありがたいことです。
持ち物に座椅子は必需品
お茶のペットボトルと同じように、座椅子はお勧めです。
試験中は正座のため膝にかなり負担がくると思います。(事前に連絡すれば椅子でもOK)
お話を聞く時とか試験が始まるギリギリまで座椅子を使用しました。
因みに私は正座でないと文字は書けないタイプ。
七段位の試験は椅子でした。気がつけば椅子の上に正座して書いていた私です。
翌日は午前8:00から実技テスト
課題は7つ。時間は80分。1つの課題に10分の目安でしょうか?
“ひらがな”の課題は「なつのよ」でした。
“4字”、“6字(行書、草書、隷書)”は昨年の漢字部手本から出ました。
“6字の楷書”は「六字四体書範」から出題。練習した記憶あり。
“6字の六朝体”は知らない文字でしたので、たぶん「六朝体書範」から出たのでしょうか?
条幅試験に続き、とても楽しく書かせていただきました。
20分休憩後に「中字、かな、臨書」の実技テスト
時間は60分。配布用紙は中字、かなは2枚ずつ。臨書は3枚配布。提出は各1枚ずつ。
時間がないと思うので中字は1枚のみで望む。
中字は昨年の漢字部手本から出ました。
驚くことなかれ実は妙に気に入った詩で今から2ヶ月前に30枚ぐらい書いた課題そのものでした。
ところがお懐かしゅうございます状態でした。
なぜならば中字は漢字部お手本からでないであろうと予測をたて試験前はノー練習でございました。
0(ゼロ)か1(イチ)かの性格が災いします。
さらに、私、えっ?ということやりました。そう、習字では非常識なこと。
本日、真新しい中字の筆を使用いたしました。
初使いの筆が思うように墨を運びません。一画、墨がもちません。
一画、書けないのです。折角(折れ)の部分まで墨が持たないのです。
跳ねの部分はご想像にお任せしますが見るも無惨なバサバサ。
真新しい筆は、ふのりで固めてあるのですね。それが墨をはじいているようです。
さらにさらに同じ種類の筆のつもりが、どうも型番が違っていたようです。
試験後に測ったら5㎜ほど穂先が長かった。中字で5㎜違うと結構、弾力の違いがあるのですね。
試験には新しい筆は使わない!身を持って体験いたしました!
中字では、おもいっきりテンションが上がりました。
次に取り組んだのは“かな”課題。
「秋霧のふもとをこめてたちぬれば 空にぞ秋の山はみえける」を散らし作品にするものでした。
“かな”は今回、基本練習のみの勉強に終始して試験に望んでおります。散らしかたも1種類と決めて。
がなんて私は、欲深な人間でしょう。その場で散らしかたを変えたのですね。
たまたま、20分休憩に見ていたうちの一つの散らしと課題が一緒だったのです。
記憶がぼんやりなので組み立てるのにかなり時間を費やす結果となりました。
ここで再び、テンションがあがった次第です。
残り10分でやっと臨書にたどり着く。
臨書は試験時に臨書そのもののお手本が配布されます。とても小さい切れ端の印刷ですけど・・。
よって今回の課題、張猛龍碑(チョウモウリュウヒ)”は 、特徴を練習して試験に望んだつもりでした。
“張猛龍碑(チョウモウリュウヒ)”は北魏時代だから楷書の中の六朝体と思いこんでおり、おもいっきり右上がりの字、転折部分に極端に個性を出す。
せっせっと書く。う~ん。バランスがちと悪い。もう一枚。
そうです。粘りのある強い線で、ふところを広くとり雄大な結構でまとめ、円筆(エンピツ)の代表的な作品と言われている鄭道昭(テイドウショウ)の“鄭文公下碑(テイブンコウカヒ)風に!私は書いた。
帰りの名古屋駅から国府駅の名鉄電車の中で、フッと気づきました。
違う!臨書のあの小さい切れ端の印刷に書いてあったのは“張猛龍碑(チョウモウリュウヒ)”。
そうだ!動の楷書の典型と言われている、線の細い字だったと。呆れて一人で思い出し笑いをする。
今回、とても楽しく試験を受験することができました。私の体調を心配し、時々スカートの裾を踏んでくれた連れ合いや故岩澤宏先生を始め習字の関係者のみなさんに感謝いたします。 おわり