あるファーストフード店が、近所にある特定の中学校を名指しで、その中学校の生徒の入店をお断りするという張り紙を出して、ネットで話題になりました。その後、その張り紙はなくなりましたが、どうやらその中学校の生徒のうち一部の特定のグループによる度重なる迷惑行為に業を煮やしたことのようです。学校にも警察にも相談したけれど改善が見られなかったということです。

 

これに対して、迷惑行為をしてもいない生徒たちまで出禁にするのは、差別に当たるという批判の声もあり、それは一理も二理もある言い分だなと私も思います。一方で、この一件から私たちが考えなければいけないのは、どちらの言い分が正しいというような単純な話ではないように私には思えます。

 

ちょっと余計な話をします。

 

会社員だったころに、会社の研修でホテルに宿泊したときの話です。20年以上前の話なので、記憶が定かではないのですが、ホテル内の飲食店で夕食を取り、そのままアルコールも飲んでいたのかもしれません。

 

何十人という大人数で楽しく飲んでいたのですが、後輩の男性社員が、接客担当の店員さんにずいぶんと横柄な態度をしていました。そこで私は言いました。「君がプライベートでここに来ていて彼女の前で格好つけるつもりでそういう口の利き方をするなら、それが正解かどうかは別にして、勝手にすればいい。でもいまはこの会社の社員としてきているんだ。そんなみっともない態度はやめなさい」。

 

私も若かったんで、実際にはもう少し荒っぽい口調で、少々すごんでみせたかもしれません。私が言っていることが本当に「正解」かどうかもわかりません。でも、私は彼に私の価値観や倫理観を伝えました。彼は「すみませんでした」と素直に謝って、態度を改めてくれました。

 

制服で迷惑行為をくり返す生徒たちに対して、たとえば「プライベートなときに何をするかは個人の勝手で、その責任も個人にあるけれど、制服を着ているときには、責任の種類や範囲も変わってくる。そのことを考えなさい」ということを、当該生徒たちはもちろん、その学校の生徒たちみんなにもこの機会にしっかり考えてほしいと思って、教育的メッセージとしてこのような張り紙をしたのであれば、「法的には・・・」みたいな話以前の、「ひととして」の話として、理解できなくはありません。

 

自分たちの「仲間」が、みっともないことをしていたら、それをやめさせるのも「友達」の役割だとも思います。そういう私も、中学生のころ、大親友が万引きするのを止めることができなかった苦い経験がありますが、そういう感性をもてというメッセージも、あの張り紙には込められていたのではないかという気もします。それを杓子定規に「差別だ」としてしまうのもどうかなと思うのです。

 

生徒たちがそのメッセージを理解して、学校の協力も得て、店との信頼関係を回復できれば、その張り紙は取りのぞかれることでしょう。店と学校が協力して、教育的メッセージを生徒たちに伝えたことになります。それが理想ではないでしょうか。次世代を教育するのは学校だけの役割ではありません。社会全体の役割です。

 

集団の同調圧力が個人に悪い影響をもたらすことが多いことも事実ではありますが、仲間に恥じない行いをしようと心がけることは、堕落しがちな未熟な個人を律する意味で、集団がもつポジティブな教育的作用の1つだともいえるはずです。制服がない学校でも理屈は同じです。

 

集団意識や協調性のない私が言ってもなんの説得力もありませんが。。。

 
 

※2023年7月27日のFMラジオJFN系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。