地域で子どもを育てる意識をもちましょうよという一例として、子どものポイ捨てを見た地域のひとが、自分でその場で注意するんじゃなくて、わざわざ学校に電話して指導させるっておかしくない?って話をSNSでシェアしたら、結構反応があったんですね。

 

みなさんは、どう思われます?

 

この話はリアルな対話の場でもときどきするんですけど、みなさん結構大きくうなずいて「そうですよね」って言ってくれるんです。一方で、ちょっと気になる反応もあるんです。

 

私に強く同調してくれて、その場のノリで言っているんだとは思うんですけど、「ときにはガツンと言うことも必要ですよね」とか「やっぱり、怖いカミナリ親父みたいな存在に触れるって大事ですよね」って話に飛躍することがあるんです。

 

そういうひとがいるってことを知るのはそれはそれで意味があるんだろうなと思う半面、私が言いたいのはそういうことじゃないんだよなという気持ちがあります。

 

何もいきなり怒鳴りつける必要はないんですよ。ちょっと驚いた様子で「あ、ちょいちょい、そこの君……」とか声をかけて、ニコッと笑って、落としたゴミを指させば伝わるでしょう。

 

ゴミのポイ捨てがいけないなんてことは小学生だって知ってるわけです。わかってることをこれ見よがしに言われるほどカチンとくることはありません。でもやっちゃいけないとわかっていることをやっちゃう心の隙が生まれることは誰にでもある。人生経験豊富な大人ななら、その気持ちにこそ焦点を当てるべきなんです。

 

さきほどのSNSでの反応のなかにこんな面白い事例もありました。そのひとが玄関先で作業をしていたら、小学生が空き缶を蹴りながら歩いて来たと。自宅の前で缶蹴りをやめて、その缶を置いて行ってしまったと。声をかけようかどうしようか迷ったけど、声をかけなかった。幼いころは自分もやっていたし、うるさいおじさんだと思われたくなかったから。というわけです。

 

私はこれはこれでいいんじゃないかと思うんですね。だって、その小学生は、たまたま道に落ちていた缶を、何気なく何回か蹴飛ばしただけでしょう。それを家まで持って帰れって言われても困りますよね。もともとはその缶をポイ捨てしたひとが悪いわけで。たまたまその缶を蹴飛ばしたからといってその責任をその小学生に背負わせるのはなんだか筋が違います。

 

そこは地域の住民として、「誰が捨てた缶だろうね。おじさんが捨てとくね」なんて言って、捨ててやればいいでしょう。そのときに、「学校で何か嫌なことでもあったのか? 家に帰るのが嫌なのか? おじさんもいろいろあるけれど、君にもいろいろあるんだろう。お互い頑張ろうな」ってな気持ちを込めれば、きっと伝わるでしょう。

 

だいぶ前のことなんですけど、私自身、こんなことがありました。夜中に小さな公園のトイレを使用しようと思ったら、暗がりの通路に、5−6人の中学生だか高校生だかの男の子がヤンキー座りでたむろしてました。

 

「ちょっとすみません。通してもらっていいですか」と言って、通してもらって、「ありがとね」と言ってからトイレに入って用を足していたら、「ああいう大人になりたいよな」って声が聞こえてきました。

 

要するに、大人のほうが先にビビってるからいきなり怒鳴ったりするんですよね。それじゃ子どもたちも大人に幻滅するわけです。大人が堂々としていれば、子どもたちだって喜んでいうことを聞いてくれるはずだと思います。

 

冒頭のポイ捨てのシーンで、何も言わないならそれはそれでいいと思います。でも、わざわざ学校にクレームまがいの電話をするくらいなら自分で声をかけようよって話です。そのときにいきなり上から目線で説教するんじゃなくて、相手が子どもであったとしても対等な人間同士として敬意をもって接することは最低限必要じゃないですかということです。さらには大人たちのそういう態度が、子どもたちにとってのコミュニケーションのお手本にもなるんじゃないかと思います。

 

 

※2023年4月6日のFMラジオJFN系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。