※広島市教育委員会が、小学3年生の平和教育の教材に採用している「はだしのゲン」について、「漫画の一部では子どもたちに被爆の実相が伝わりにくい」などとして、新年度から別の教材に差し替えることを決めことに対して、反対の声が大きくなっています。実はちょうど10年前には松江市の学校図書館で「はだしのゲン」の閲覧に制限がかけられるということがありました。そのときにラジオでお話しした内容の書き起こしがパソコンの中に残っていたので、ここに掲載しておきます。

 

 

松江市の学校図書館で、戦争の悲惨さを描いた名作マンガ「はだしのゲン」の閲覧に制限がかけられたことが報道されました。

マンガの中で描かれている残虐シーンが、子どもに悪影響を及ぼす可能性があるからという理由らしいのですが、これに対して各方面から批判が噴出しています。

市民から陳述を受け、市議で議論するも、不採択。その後市の教育委員会の判断で、閉架にいたったという経緯が報道されています。

大人が一緒に読むのならいいが、子どもだけではダメという主旨のようです。

 

この問題には2つの問題があると思います。

 

ひとつは、残虐シーンがあるからと言って、それを見せないことが本当に教育上いいことなのかということです。

それでいうなら、私は、戦争の恐ろしさを表現するために避けては通れないのではないかと思います。

いくら口で「戦争はいけないこと」「怖いこと」といっても子どもにはわかりません。どんなに残忍なことが行われていたのか、語り継がれなければいけません。

それが日本が世界に誇るマンガというメディアを利用したら、ああいう形になったということでしょう。

子どもだってバカがありません。

残虐シーンのみをみて、「まねしてみよう」なんて思いません。

自分や自分の家族や友達が、こんなひどい目に合うかもしれない恐怖を感じ、絶対に戦争なんてしちゃいけないんだということを感じ取るでしょう。

また、周りの大人が、戦争は人間が人間でなくなってしまうおろかなこういであることを真剣に伝えればいいでしょう。

表面的な表現にだけ目を奪われ、もっと大切なメッセージが子どもに届かなくなるのだとしたら、本末転倒です。

 

もうひとつは、そもそもこういうジャッジがなぜまかり通ってしまったのかということです。

残虐シーンや、政治的な思想の描き方に、好き嫌いはあると思います。

平和教育に必ず「ゲン」を使えとは思いません。

実際、この議論に加わっている人たちの中でも、ゲンを全巻読んだという人は実は少ないのではないかと思います。

私も、このマンガがもともとジャンプで連載されていたというのは今回の件で初めて知ったくらいです。

しかし、私がことさら問題だと思うのは、教育委員会の鶴の一声で、これまで「名作」といわれていたものに、閲覧制限がかかってしまい、それに異議申し立てがないということです。

教育委員会からのお達しがあったときに、現場の教員たちはどう思ったのでしょうか。

たぶん「そんなバカな……」と絶句しただろうと思います。

そしてそのことこそが、現在の公教育の構造的危うさを露呈していると思います。

 

理不尽がまかり通り、学校教育の中を闊歩する。

現場の教員は絶句しつつ、それをやりすごすしかない。

それでまともな教育ができるのでしょうか。

たとえば日本の政治が危険な思想に偏ったときに、教育の力でそれを食い止めることができるだろうか。

現状の上意下達式の教育行政では無理じゃないかと思います。

 

いじめ、体罰など、学校を舞台とする問題が露呈するたびに、教育委員会の「責任」が追及されますが、「責任」以前に、ナンセンスがまかり通ってしまう「構造」に問題があるのだと私は思います。

今回の議論、もし、現場の教員たちの叡智を集めて議論がされ、方針が決定されるような体制になっていれば、多分今回のようなナンセンスな対応はあり得なかったと私は思います。

 

いじめや体罰など、諸処の問題についても、教育委員会が判断を誤ることが本質的な問題なのではなく、現在の日本の教育行政は判断を誤りやすい構造にあり、一度判断を誤ると内部からは誰もそれを指摘できないということ自体が問題なのだと思います。

今回の一件は「ゲン」に対する評価という問題だけではなく、教育行政のあり方を問う問題だと思いました。

 

そして、私個人の意見としては、もっと現場の先生たちの意見を大切にすべきだと思います。

「教育は会議室で行われているんじゃない、現場で行われているんだ」ということです。