静岡県裾野市の私立認可保育園で、そして富山県富山市の私立認定こども園で、日常的に不適切保育が行われていた事実が相次いで明るみに出て、子育て世代を震撼させている。

裾野市の保育士3人は暴行容疑ですでに逮捕され、富山市の保育士2人は書類送検されている。

宮城県仙台市の企業主導型保育施設においても、不適切保育が報告された。

残念ながら、これらはおそらく氷山の一角である。待機児童問題解消のため、国は保育施設増設を急ピッチですすめた。そのしわ寄せともいえる。

 

一方、神奈川県相模原市立大野南中学校では、生活態度の良い生徒を「無印良品」、反抗的な態度が見られ問題行動の多い生徒を「反社会」、欠席が多かったり登校を渋ったりして支援が必要な生徒を「非社会」などと表現して生徒たちを分類する文書を教員間で共有していることが発覚し、校長が謝罪した。

市教委は「人権を傷つける内容で、事態を大変重く受け止めている。再発防止に努めたい」とコメントしている。

これについても残念ながら、さもありなんという感想が湧いてくる。

 

私が聞いた話では、ある小学校で、担任が1人の生徒を目の敵にして怒りまくっていたという。あまりにひどいので問題になり、担任は生徒とその保護者に謝罪した。

その後、担任がその子に直接怒ることはなくなったという。どうしたかというと、クラスメイトにその子の悪いところを指摘させ、指摘するとご褒美のシールかスタンプかをもらえるようにしたとのこと。

それを聞いて、私は絶句した。

 

子どもを1人の人間として尊重せず、管理する対象としてしか認識していないのではないかという態度がこれらの事案には通底している。子どもを1人の人間として尊重するというのは、何も子どもたちのわがままを一人一人ぜんぶ聞いてやるという話ではない。子どもが何を感じて何を思ってそこにいるのか、そういうことをしているのかを、決め付けず、そのまま「見る」ことである。

 

「尊重とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことである。いうまでもなく、自分が自立していなければ、人を尊重することはできない」

(エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳より)

 

ただし、学校や保育園に限ったことではない。家庭でもそして塾でも習い事でも、子どもを1人の人間として見ることを忘れてしまうことはよく起こる。社会全体でも、子どもたちの人権が軽視されていると感じられるケースは多い。公園の閉鎖、コロナ対策としての黙食ルールなど。

 

さらには、2021年3月に出入国在留管理庁(通称・入管)の名古屋の収容施設で、スリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんが、あまりに非人道的な扱いを受け、33歳の若さで亡くなった事案を思い出す。特に閉鎖的な空間である種の集団心理が働いたときには、誰しもが、自分の中に潜んでいた魔物のようなものにとりつかれてしまうことがあるのかもしれない。いじめの問題も根本的には同じ構造なのかもしれない。それが人間の性なのかもしれない。

 

エーリッヒ・フロムが言うように、「自分が自立していなければ、人を尊重することはできない」のだとするならば、社会全体の問題として、大人たち自身が1人の人間として、自立していないから、尊重されていないから、子どもたちを「見る」ことができないのではないだろうか。残念ながらこの社会では、みんながお互いを見えていないのかもしれない。

 

※2022年12月15日のFMラジオJFN系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。