昨年の秋に『ルポ森のようちえん』という本を出しました。森のようちえんというのは、園舎の中の教室ですごすのではなくて、森の中ですごすスタイルの幼児教育の総称です。

 

自然と触れ合うことが子どもにとって最高の経験の一つであることは、直感的に誰も疑わないでしょう。もともと人間も自然の一部ですから、自然から切り離された人工物ばかりの環境にいることは、人間にとっても本来不自然なことで、知らず知らずのうちにストレスにさらされたり、人間が本来もっている潜在的な能力を十分に活用できなかったりすると考えられます。

 

ただし、そういう教育の大切さを説こうとすると、「でも都会には自然がない」「東京では無理」みたいな嘆きが聞こえてくることがあります。でも、それも思い込みだと私は思います。

 

昨日、地元の洗足池という池のまわりのちょっとした雑木林を散歩しました。クヌギやコナラが何本かあって、よく見てみると樹液にカナブンがたくさん集まっています。コクワガタでも居るかな?と探してみましたけど、目で見る範囲では見つけられませんでした。

 

そんなふうに、東京の町を歩いていても、ところどころにちょっとした公園があります。文京区や港区のような都会のど真ん中でも、雑木林や池があるちょっとした公園はわりと簡単に見つけることができます。そういう自然で十分なんです。

 

都会でも、夏の空にはツバメが飛び、夕方になればコウモリが飛んできます。木のうろを覗いてみれば、ヒヨドリが子育てしたりしています。都会でも、よく探せばカブトムシやクワガタと出会えます。都会には自然がないなんて言ったら、必死に生きている彼らに失礼です。都会には自然がないと思ってしまうこと自体、「都会には自然がない」という呪文に自らとらわれてしまっているのです。

 

秋に葉を落とした樹木にはいずれ雪が積もります。木肌を触ると、まるで寝ているようです。しかし雪が溶けたと思ったら、ある暖かな日に、枝先に小さな緑の芽吹きを発見します。極寒に耐え、じーっとそのときを待っていたのです。そんな姿を間近に感じるだけで、命への敬意が生まれます。遠くにある大自然にゲストとして行くよりも、身近にある自然に気づき、その季節ごとに変化を日常的に感じることのほうが、子どもにとっては深い経験になるはずです。

 

都会においても身近なところに自然を感じる感性は、身の回りにあたりまえのようにある幸せに気づく感性に近いものだと私は思っています。童話の『青い鳥』に出てくるチルチルとミチルが、壮大な冒険のあと、実は目の前に「幸せの青い鳥」がいたことに気づくように。

 

いま、神宮外苑の再開発のために1000本近い樹木を伐採する恐ろしい計画が進んでいます。当然反対運動が始まっています。都会の中にもある身近な自然に対する敬意があるひとなら、それがいかに恐ろしいことだか直感的にわかるはずだと思います。生き物である樹木の伐採は、人工物を壊して新しくするのとはわけが違います。経済合理性を優先して簡単に樹木を切り倒すような社会は、人間をも簡単に切り捨てる社会と地続きだと私は思います。

 

※2022年6月30日のFMラジオJFN系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。