全日本柔道連盟(全柔連)は、全国小学生学年別大会の廃止を決定した。行き過ぎた勝利至上主義が散見されるという理由だ。

https://www.asahi.com/articles/ASQ3K72D7Q3JUTQP00H.html

 

全柔連の山下泰裕会長によれば、「試合中に保護者や指導者が審判に罵声を浴びせる問題は前からあった。さらに保護者が自分の子どもの対戦相手をののしるケースも報告された。これは、大会を止めないと子どもにしわ寄せがいってしまう、という話になった」とのこと。

 

全柔連には「子どもがかわいそう」という意見も寄せられているそうだが、メディアでの有識者の声は今回の全柔連の決断を「英断」とするほうが多い印象。柔道だけでなく、多くの少年スポーツでも同じ問題があると指摘する声も多い。

 

運動会のかけっこでみんなで手をつないでゴールするというのとは別の文脈だ。今回の決断は、勝ち負けを決すること自体を否定しているわけではない。競技の楽しさを通じて子どもの心身の健全な発達を促すことが目的であるはずなのに、大規模な大会があることによって大人の損得勘定が子どもの競技体験を支配してしまう構図を否定している。

 

試合を行えば当然勝ち負けが決まるわけだが、特に武道においては、試合を行うのは技術向上のための手段であって目的ではない。一般的なスポーツにおいても、少なくとも教育的な文脈で言えば、心身の健全な発達という目的のための手段として競技があるわけで、勝った負けたが本来的な目的ではないはずだ。

 

しかし、私の取材経験では、そこがわからない保護者や指導者が少なからずいることも事実。今回の全柔連の決断は、そういう大人に対してのお灸といえる。

 

ちなみに学校教育に体育や部活動を積極的に取り入れたのは、近代柔道の創始者であり文部参事官でもあった嘉納治五郎だといわれている。1940年の幻の東京五輪招致成功の立役者でもある。彼が柔道の修行の中で見出した精神が「精力善用」「自他共栄」。自分の力を最大限に活かすとともに、自分だけでなく相手も活かすのが柔道の精神だ。子どもの大会で親が、わが子の対戦相手である小学生を罵るなど、嘉納治五郎に言わせれば言語道断だ。

 

山下さんが創始者の思いを代弁する。「トーナメントでは、勝者は優勝者1人。あとはみんな敗者となる。体が丈夫になった、友達ができた、新しい技を覚えた、と柔道をしたことがその子の人生にプラスになれば、全員が勝者になれる」。

 

これは受験においてもいえること。受験は合格・不合格を競う競争だが、どこかの学校に行けるか行けないかなんかで人生はさほど変わらない。結果よりも、受験という経験を通してどんな人生の糧を得たかがより重要だ。結果にかかわらず、自らの人生を輝かせる糧を得た者全員が、笑う者という意味での「笑者」になれるのだと思う。

 

世の中は、特に資本主義の世の中は、競争だらけだ。だからこそ、競争の構造の中においても、勝ち負けに囚われず、相手に囚われず、ありのままの自分自身であり続けられる強さを身につけられるように導くのが、子どもに寄り添う親や指導者の役割であるはずだ。そういう強さを身につけることこそが、これからの先行き不透明な時代、つまりモノサシがコロコロ変わる時代において、より重要になってくるはずだ。

 

スポーツや受験の機会を、競争の構造の中にあってなおも勝ち負けを超えた価値をつかむ経験だと捉えて、子どもに寄り添ってあげてほしい。

 
※2022年3月24日のFMラジオJFN系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。