学童保育で、新入生の小学1年生が緊張のために自己紹介ができなくなり、泣いてしまっているにもかかわらず、職員がカウントダウンを始めたり、「言うの?言わないの?」とせき立てたりしている、動画がネットで拡散しました。

 

私も1度だけ見ましたが、だいの大人がよってたかって子どもをいじめているようで、見ていて大変気分が悪くなるものでした。

 

その事件とは直接の関係はないのですが、その学童は、ある特殊な教育法を標榜する幼稚園の系列の学童でした。ここでは名前は出しませんが、10年ほど前でしょうか、一時期は連日のようにテレビでその幼稚園の独特の教育が取り上げられ、出演者も絶賛していました。

 

その幼稚園の生徒たちは、跳び箱は10段跳べちゃうし、ブリッジしたまま歩けちゃうし、鍵盤ハーモニカも音を聞くだけで曲が弾けるようになっちゃうし、3年間で2000冊もの絵本を読むしというスーパーキッズなんです。すごいっちゃすごいですよね。でも当時から私はその教育観に違和感を抱いていました。

 

ここでその幼稚園や学童のことを非難したいのではありません。子どもの「成長」を願う大人がつい抱いてしまう、危険な落とし穴に気づいてほしいのです。

 

何かができるようになることは子どもにとって大きな喜びです。でもひとによって得意なこと不得意なことはあります。不得意なことでもそれを克服してできるようになる経験は尊いですが、それが本人の意志ではなく、「これくらいできて当然」のような強烈な協調圧力や、「できなかったら恥ずかしい」というような心理的脅しによるものだったらどうでしょう?

 

どうしてもできない子は、惨めな思いをします。それをバネにしろという教育なのでしょうが、それはなんのためでしょうか? できないことがあったっていいじゃないですか。人間だもの。私だって、ピアノなんてまったく弾けません。跳び箱10段だって飛んだことありません。でもなんとか生きています。

 

頑張って、どんな課題もクリアできたら、その分の自信はつくかもしれません。「どんなことでもやればできる」という前向きな気持ちも養えるかもしれません。でも、それによって、心の根底に「どんなことでもできなければいけない」という強迫観念が染みついてしまうとしたら、そういう生き方は苦しいものになるはずです。そして、与えられた課題はなんでもできなきゃいけないと思っているひとは、できないひとを心のどこかで見下してしまいがちになる可能性もあります。

 

何ができるとかできないとかは関係なく、自分は自分らしくあっていいと思える気持ちを俗に「自己肯定感」といいます。

 

何かができることによって得た自信は、自己肯定感とは異質なものです。子育てにおいて、何かができるようになることによって自信を身につけさせようとすると、自己肯定感が下がってしまうことがあります。「できなきゃいけない」という意識が強すぎるとできる/できないにかかわらず「できない自分はダメだ」となってしまうからです。

 

「できるから自信がある」というのでは弱いんです。これでは表面的に自信は満々に見えても、自己肯定感は低い状態だといえます。できなくても堂々としていられるほうが、自己肯定感は高いと言えるのです。

 

ですから、子どもが何かに挑戦しているときには、できる/できないという結果ではなく、努力するその姿勢自体を認めてあげるようにしてください。そしてもし途中であきらめたとしても、「またやりたくなったらやればいいよ」と、それはそれで認めてあげてください。そうすれば自己肯定感が高く保たれ、しなやかに生きていけるはずです。

 

※2021年4月8日のFMラジオJFN系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。