本のほかの部分はほぼ書き終えていた。「あとがき」に当たる部分には、やはりあの話をもってきたいと思った。学校における自らの実体験を描こうとすれば、当然ながら友人と先生が登場することになる。もちろんどちらも匿名にするが、それでもやはり本人確認をとるべきだろう。原稿とともに、SNSでY君にメッセージを送る。
「この話を、こんど出る麻布の本の最後に載せていいかな?」
「うん、いいよ」
「ありがとう!」
「ウガのところにもお線香をあげに行かなきゃなぁ」
「あ、そうしよう! 本ができたらいっしょに行こう!」
この本ができたら、ウガのところに持っていこう。それが本を仕上げる最大のモチベーションになった。そして思った。「あっ、僕はもしかして、このたった5ページのエピソードの背景として、300ページにもおよぶこの本を書いたのかもしれない。結局言いたかったのは、これだったんだ」。そう思うと、また涙があふれてきた。
拙著『麻布という不治の病』より、「あとがきにかえて」。
仕事柄、麻布がどんな学校だったかを聞かれることがある。そんなとき、いつも話すことがある。K先生の思い出だ。
K先生は、私の学年の持ち上がりの、柔道の先生だった。ウガンダというタレントに似ていたため、私の学年では「ウガ」というあだ名がつけられていた。屈強な肉体といかつい顔つきとは裏腹に、いつもほがらかで、優しい先生だった。
中二のとき、私と同じサッカー部のY君が、ふざけて私の頭にチューイングガムを押し付けた。髪の毛に絡まり取れなくなり、ウガがはさみで髪を切ってくれた。翌日、私はY君の頭に、弁当に入っていたイチゴを乗せ、押し付けてつぶしてやった。Y君の額をイチゴの汁が伝う。Y君も納得したように笑った。
Y君と私は親友になった。しかし中三のとき、Y君はちょっと深刻な事件を起こしてしまう。
そのときに、どんなドラマがあったのかを知ったのは、二〇一〇年春、ウガの通夜の後だった。
焼香をすませた後、私たち一九九二年卒は、寺の近くの焼肉屋で食事した。ウガの死に、あまりに現実味が感じられず、普通の飲み会のようなムードで飲み交わした。場所を居酒屋に移し、続けて飲んだ。そのとき、いつもはやかましいY君が、ほろりと涙を流し、告白を始めた。
******
あの事件が問題になったとき。両親が呼び出されて、面談をしたんだよ。俺はもう退学になる覚悟だった。のっけから、両親はただ、ご迷惑おかけしましたって、平謝り。うちの子が……申し訳ございません。これから厳しくしますので、どうか……。という感じ。
でも、そのときウガが言ったんだ。
「お父さん、お母さん。さきほどから、Y君のことばかりを責めますが、ちょっと待ってください。Y君がなぜこんなことをしてしまったのか、彼の気持ちを考えてみましたか?」
両親は最初、何を言われているのかまったく理解していない様子だった。でもだんだんとウガの意図することを理解して、言葉を失った。
「な、Y。お前はほんとはとってもいいやつだよな。俺はよくわかってる。だから、お父さん、お母さん。もうY君を責めるのはやめてください。そして私に任せてください。Y君なら絶対に大丈夫ですから」
ウガはそう言って、その面談を終えたんだ。
いまだから言えるけど、当時、俺は、親の期待通りの成績をとれないことに強い不安とストレスを抱えていたんだ。ウガはそれを見抜いていたんだ。
それからウガの更生プログラムが始まった。といっても、一週間に一回、決められた時間に体育教官室に来いと言うだけ。そこで何をされるのかと俺は身構えていたんだけど……。
「よし、これから毎日、腕立て伏せを一〇回やりなさい。それをこれに記録しなさい」
ウガはそう言って、俺にノートを渡しただけだった。
俺は言われたとおりに毎日一〇回腕立て伏せをして、それを記録して、また一週間後、体育教官室に行った。
「よし、今週は毎日二〇回!」
毎回回数が増えていくけど、それだけ。そしてそれが数カ月続いた。
数カ月後、いつものように体育教官室に行くと、ウガが「お、ちょっとたくましくなってきたんじゃないか」って笑うんだ。
俺はそれがうれしくて、うれしくて。それだけで、本当に自信がついた。
そしたら「もう、来週から来なくていいよ」って。「もう大丈夫だろ」って。
ウガのおかげで、俺は立ち直れたんだ。そうじゃなかったら、いまここにいないと思うよ。
******
その場には卒業後も頻繁に顔を合わせる仲のいいやつらが、八人いた。当然野郎ばかり。でも、Y君の話を聞きながら、全員が、無言で、泣いていた。あのとき、そこまでのドラマがあったということを、Y君の親友を自称する私でも知らなかったけれど、ウガなら、そういうことをしただろうということには、誰もがうなずけた。ただし、ウガが特別だったわけではない。いま思えば、麻布の先生たちは私たちを本当におおらかな目で見守ってくれていた。
ウガの笑顔がもう見られないことはさみしかったし、悔しかったけれど、でもそれ以上に、みんな、感謝の気持ちに満たされていた。居酒屋の座敷席で、私たち野郎八人は、そのまま数分間、肩を震わせて泣いた。そして、恩師を思い、ともに涙を流せる仲間がいることが、私には誇らしくてしょうがなかった。
麻布らしいエピソードとして、私はいつも、このことを話す。そして、いつも涙をこらえられなくなる。いまも。
ウガの家がどこにあるのかは知らなかったが、卒業生であることを名乗って学校にお願いすれば、ご家族に確認したうえで連絡先を教えてくれるだろう。でも、学校の電話番号を検索しているときに、ふと思い出した。13年前、僕の母が亡くなったとき、ウガは葬儀に参列してくれた。そのときのお香典返しの名簿が残っているはずだ。
仕事用のパソコンの中に、母に関連するデータが入っているフォルダがある。そこを調べてみると、あった。母が、「ウガ先生のご自宅はここよ、ここ!」って教えてくれたかのような気がした。電話番号も書かれているが、いまもそこにご家族がお住まいなのかはわからない。恐る恐るダイヤルする。
優しい声の女性が出た。オレオレ詐欺だと思われないように、慎重に言葉を選びながら、先生の教え子であることを説明する。優しい声の主は、先生の奥様だった。電話を通じてでも、涙がほろりと奥様の頬を伝うのが見えた。僕も胸がいっぱいになり、言葉が出てこなくなった。
「こんな物騒なときに申し訳ないのですが、私と、友人のY君とで、お線香をあげにうかがってもよろしいでしょうか」
「いつでもいらしてください。思い出していただいて、ありがとうございます」
早速Y君に報告し、ウガの家にお邪魔する日時を決めた。
当日は気持ちのいい秋晴れだった。住所を検索してみると、僕の自宅から5キロくらいしか離れていない。歩くことにした。ウガのこと、Y君のこと、そしてそのほかの友人や先生や学校のことなどを考えながら、約1時間歩き、Y君と落ち合った。奥様とお嬢様が出迎えてくれた。
「おおたです。これが、先生に大変ご迷惑をおかけしたY君です(笑)」
学校でのウガと、家庭でのウガ。お互いが知らないウガの話をした。Y君が当時の状況を詳細に説明する。すると、お嬢さんが言う。
「毎週水曜日は遅くまで帰ってこなかったよね」
「麻布って、延々と会議をするんですってね。主人がよく言ってました」
麻布名物、エンドレスな職員会議のことだ。議題のほとんどは、かつてのY君のように問題を抱える子への対応だといわれている。麻布には校則がない。だから何らかのトラブルを起こしたとしても、「停学1カ月相当」などという一律のルールもない。同じ種類のトラブルだとしても、そこに至る経緯はそれぞれだから、それぞれの事情に合わせた対応を、毎回ゼロから議論する。そこで教員同士の教育観が火花を散らすこともある。だから会議が長くなる。Y君の事件のときにも侃々諤々の議論があったはずだ。でも最後はきっとウガが、「私に任せてください」と言い切ったのだろう……。そんな話をした。
ウガのご自宅で、4人の、穏やかな時間がすぎた。自分の人生のすべてを肯定されているような時間だった。
自分はたまたまさまざまな条件が重なって、“いい学校”に通うことができた。そのおかげで、卒業して30年経っても色褪せない、しあわせな実感を財産にすることができた。中高だけではない。小学校の先生ともいまだにときどき食事に行くし、大学の先生もうちに遊びに来てくれる。彼らはいまでも僕を褒めて、励ましてくれる。どうやら僕は、学校を舞台にした出会いに恵まれている。
だからだろう。僕には「学校」とか「先生」とかいう概念に対する絶対的な肯定感がある。「学校」や「先生」が好きなのだ。それで若いころは自分も先生になろうと思っていたのだが、いまは、学校や先生を観察して描く立場にある。仕事として訪れる学校での出会いにも恵まれ続け、「恩師」がいまでも増えていく。そういう人生なのだろう。
便宜上「教育ジャーナリスト」と名乗ってはいるが、実際は、先生や子どもたちの「観察者」だと自分では思っている。『シートン動物記』や『ファーブル昆虫記』が森や草原を舞台にそこにあるきらきらとした「命」の物語を描いたように、僕は学校を舞台にそこにあるきらきらした「命」の物語を描きたいと思っている。
母校に対する愛着は強い。でも一方で、自分たちだけが特別であるはずもない。ほかにも素敵な学校はたくさんあり、自分たちが感じたしあわせと似たようなしあわせを感じて育ったひとたちがいっぱいいるはずだ。そう思って僕は全国の学校を訪ねる。実際にすばらしい学校がたくさんある。たくさんの学校に“ウガ”がいる。
また、たまたま“いい学校”に入れた者だけが「俺たち“いい学校”で良かったよね」で終わっていいわけがない。自分たちが恵まれていたと思うからこそ、同じ思いを、より多くの子どもたちにも味わってほしい。
いま僕には、「麻布は特別じゃない(すべての学校が特別だ)」「麻布が特別でいいはずがない(すべての学校が特別であるべきだ)」という信念がある。
しかし、学校や先生に対してネガティブな印象をもっているひとたちも、世の中には少なくない。それはなぜなのか。どうしたら、僕が感じている「学校」や「先生」への絶対的肯定感を、すべての子どもたちが感じられる世の中になるのか。そのヒントを求めて、僕は学校を訪ねて回る。
それが自分にとってのささやかなノブレス・オブリージュだと思っている。