SNSで短い動画が回ってきました。日本の小学校で生徒たちが校庭をぐるぐる回るマラソン大会みたいなものをしている横で、その学校の校長先生と、フィンランドの小学校からやって来た校長先生が話している構図です。

 

私は番組そのものを観ていないので番組意図はわからないのですが、おそらく前後があって、それぞれの国の教育のいいところを話し合ったりしていたのでしょうが、SNSで拡散されている短く切り取られた場面では、どうも日本の校長先生の分が悪い感じでした。

 

フィンランドの先生が日本の先生に「順位は付けるのですか?」と尋ねます。日本の先生は「学年ごとに上位入賞者には賞を用意しています」と答えます。するとフィンランドの先生は「正直がっかりです」と言います。

 

フィンランドの先生の理屈はこうです。「運動は(それをするだけで)そもそもいいものなのに、運動が得意でない子は(順位を付けられることで)ビリという烙印を押されてしまいます。それで運動をやりたくなくなってしまうのではないでしょうか」。

 

それに対して日本の校長先生は「子どもたち一人一人に目標を持たせています。去年の大会で10番だった、20番だった子は、それよりも少しでもいい順位になるように努力しています。その努力の過程を評価している。もう少しいけるだろうという励ましつつ、努力の大切さを伝えている」と説明します。

 

誰かの順位が上がったら、誰かの順位は下がるのですから、この説明では順位ではなくてタイムを用いるべきだったなと思いますが、それにしても、フィンランドの先生は「やはり納得できませんね。順位が少しくらい上がったからってそれがなんなんですか?」と反論します。

 

日本の先生も食い下がります。「子どもたちが自分の力を知って、自分の力を克服することを目的に、こういう大会が計画されています。だから子どもたちはみんな自分と戦っているんです」。

 

それに対してフィランドの先生は「おっしゃることはすごくわかるのですが、このような大会は、子どもたちが運動を好きになって社会に出たときに健康を維持するために走ったりするようになることが本来の意味ではないでしょうか?」と問いかけます。

 

興味深い議論だと思いました。これぞまさに教育観の違いなんですね。

 

学校でマラソンをする目的を、日本では自分に勝つことに置いている。フィンランドでは将来の人生においてランニングを楽しめるようにとしている。どちらを目的にするのもありだと私は思います。

 

ただ、おそらくフィンランドの先生が気にしているのは、日本の教育において、自分に勝つという目標設定のために、「順位が早いほうが偉い、タイムが速いほうが偉い、なぜならばそれは努力の結果だから」という価値観を子どもたちの無意識に刷り込んでしまっていることだと思います。

 

受験勉強の偏差値でも同じ理屈が使われます。たしかに努力して成果が出て成長を実感できればシナリオ通りです。でもそう単純には行かないのが人生ではないでしょうか。それなのに、偏差値やマラソンのタイムのような単純化された善悪のモノサシを子どもたちに与えて、しかもそれを努力と結びつけて、いい結果を残した者が偉いという考え方をすりこめば、常に他人と比較するようになってしまいますし、いい成績を残せなかった人たちを見下す価値観にもつながってしまいます。いわゆる昨今流行りの自己責任論です。

 

子どもが自分に勝つ経験をするために、何も大人がその勝ち負けのルールを設定してやる必要なんてないんですよね。本人が成し遂げたいと思ったことについて大人は励ましてやればいいのであって。

 

日本の教育を全否定する必要はないと私は思います。でも日本の教育現場に昔からあるモノサシの存在には、これからの時代、もう少し敏感になる必要があるかもしれません。フィンランドの先生のように外から見たときの違和感は、それに気づくヒントになるはずです。「だから日本の教育はダメなんだ」ではなくて、いいところを残しながら、負の側面については調整していけばいいと思います。

 

※2020年10月8日のFMラジオJNF系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。