先日、拙著『世界7大教育法に学ぶ才能あふれる子の育て方最高の教科書』の読書会に参加しました。自分の本を読んでくれた方たちがどんな話をするのか興味津々でした。とても盛り上がり、楽しい時間を過ごさせてもらいました。それにちなんで、本には書かなかったこぼれ話をここに書いておこうと思います。確証がとれずに本には書かなかった話ですから、話半分で読んでください。

 

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モンテッソーリが最初の「子どもの家」をつくったのが1907年です。シュタイナーが「自由ヴァルドルフ学校」を始めたのが第一次世界大戦直後の1919年です。モンテッソーリの弟子だったヘレン・パーカーストがニューヨークで「児童大学」を始めたのも1919年です。ペーター・ペーターゼンがイエナ大学付属校校長に就任したのが1923年です。フレネが自前の学校をつくったのは1935年。レッジョ・エミリアに最初の幼児学校「アジーロ・デル・ポポロ」ができたのが第二次世界大戦直後です。サドベリーバレー・スクールは1968年創設ですから、このなかでは最も新しい教育だといえます。

 

実に100年以上も前から「時代は変化しています。教育も変わらなければいけません」と叫ばれ続けているのです。日本だけではないのです。

 

実は日本でも、大正時代に「新教育運動」が起こりました。工場で働く歯車のような人間を育てるのではなく、もっと自由で人間らしい人間を育てようというムーブメントです。このときは特にドルトンプラン教育がブームになりました。

 

欧米ではこういう教育を「オルタナティブ教育」と呼んで、20世紀前半に「発見」したというのですが、そもそも産業革命以前の世界では、特に東洋世界では、このような子ども中心の教育観が常識だったのではないかと思います。幕末に日本にやってきたオールコックが、「日本は子供の楽園」だという言葉を残したように。

 

しかし、産業革命以降に「学校」が「発明」され、教育の「主役」となったことで、かつての人類の「常識」が忘れられてしまっただけはないかと思います。

 

蛇足になりますが、モンテッソーリの講演録を紐解くと、彼女がボーイスカウトの活動を推していたことがわかります。ボーイスカウトは、イギリスの退役軍人ロバート・ベーデン・パウエルが1907年に21人の少年を連れて無人島で行った実験キャンプから始まった教育法です。奇しくもモンテッソーリが最初の「子どもの家」を開いたのと同じ年です。

 

かつて私は、『習い事狂騒曲』という書籍を著すためにボーイスカウトに関する簡易な取材を行った際、ボーイスカウトは学校教育の弱点を見事に補完する教育プログラムだという印象を受けました。以来、雑誌の取材などでおすすめの習い事を聞かれるたびに、ボーイスカウトを挙げています。

 

ボーイスカウトは単に野山に出かけてキャンプする活動ではありません。異年齢のグループで常に共通の課題に取り組み、組織のなかで自分の役割を見つけ、協働しながら探究するプログラムです。リーダーシップとフォロワーシップ、そして民主主義をも学ぶことができます。モンテッソーリ教育だけでなく、本書で紹介する多くの教育法と通底する理念をもっています。学校教育の弱点をうまく補完する教育だということができます。

 

日本ではやや下火なのですが、マイクロ・ソフト創業者であるビル・ゲイツや映画監督のスティーブン・スピルバーグ、イギリスのベストセラー作家のジェフリー・アーチャーら、蒼々たる面々がボーイスカウト出身者だと聞けば、見る目も変わるのではないでしょうか。また、ボーイスカウトの最上級者(富士章)になると、それだけでソニーやホンダに就職できた時代が、かつてはあったそうです。

 

さらに蛇足になりますが、日本では、現在のボーイスカウト日本連盟の先駆けとなる団体が1922年に組織されています。大正時代のことです。ちょうどこのころ、日本の旧制中学で、臨海学校や林間学校が始まります。私は、ボーイスカウト活動の理念を、当時の旧制中学校が真似たのではないかという仮説を立てています。それを明確に裏付ける史料にはいまだ出会っていないのですが、1922年創立の「少年団日本連盟」の代表は、満鉄総裁や東京市長も務めた後藤新平。1920年前後には多くの男子校が創設されていますが、後藤新平はその創設者たちと深い交流があったのです。

 

ちなみに日本で初めて臨海学校および林間学校を実施したのは旧制成城中学(現在の成城中学校・高等学校)だと言われています。1918年に日本初の林間学校を、1925年に日本初の臨海学校を実施しています。そして、本書でも紹介したドルトン・プランは、1924年、日本で初めて成城小学校(現在の成城学園小学校)で導入されました。

 

成城学園小学校と成城中学校・高等学校は、いまでこそ別組織によって運営されていますが、当時は同じ系列の学校でした。つまり同じ系列の学校で、同じ時期に、ボーイスカウトに相当する教育活動もドルトン・プランも導入されているのです。

 

大正デモクラシーに象徴されるように、日本でもようやく民主主義意識が高まり、同時に教育熱が高まった時期です。そんな気運のなかで、「新教育」の期待を帯びて、ボーイスカウトもドルトン・プランも日本に上陸したのではないでしょうか。だとすれば、当時の成城学園は、かなり先進的な学校だったといえるでしょう。実際、当時の成城学園から、玉川学園、明星学園、和光学園、自由の森学園などのユニークな学校が派生しています。

 

さらに興味深いことに私は気付きました。日本が世界に誇る教育法の一つ公文式の創始者・公文公は、私立土佐中学校(現在の土佐中学校・高等学校)在学中に、当時としては先進的な数学の授業を受けたとされています。問題集を渡されて、各自が勝手に進めるスタイルだったというのです。それが公文式の礎になっていると公文は語っています。

 

公文が土佐中に通っていたのは、1926年から5年間。あるいは東京の先進的な学校で取り入れられていたドルトン・プランが噂となり、そのエッセンスを、土佐中の数学教師が真似していたのかもしれません。だとすると、ドルトン・プランが、公文式の源流だったことになります。ドルトン・プランの創始者ヘレン・パーカーストは1924年に初来日し、日本の教育者たちから熱狂的な歓迎を受けています。ちなみにヘレン・パーカーストは、モンテッソーリの助手をしていたことがあります。

 

実は私が初めてドルトン・プランを知ったときに受けた印象は、「どことなく公文式に似ているなあ」でした。もしかしたらビンゴだったのかもしれません。これもあくまでも私の仮説の域を出ない話ではありますが。

 

かように教育とは、さまざまな立場のさまざまな思想が複雑に絡み合いながら、脈々と続いているものなのです。いまの時代に自分の目に見えているものだけを判断材料にして未来の教育を語ると、人類が100年以上も前に犯した過ちをくりかえすことになりかねません。