教育雑誌などのインタビューを受けると、「正解のない世の中を生きていかなければならない子どもたちに、いま、どんな教育をするのが正解なのでしょうか?」という冗談のような質問を本気でされることも多い。

 

国を挙げての教育論議も同じだ。「正解のない時代」に生きる子どもたちにどんな教育を与えればいいのかという議論そのものがすでに「どんな教育が正解か」という正解主義に陥りがちだ。

 

当然のなりゆきとして、子育てにも「正解」があると思ってしまう。「正解」を知らないと落ち着かない。「正解」の通りに子育てをしないと、子育てに失敗してしまうと思い込む。わが子の状態を見るよりも先に、「正解」にわが子を当てはめようとしてしまう。

 

それがたまたまわが子にとっての最適解と一致すればいい。しかしそうでないとき、子どもは苦しい。それでも親は、「これが正解」と信じて疑わないから、無理やりにでもわが子を「正解」に合わせようとする。「あなたのため」が子どもを壊しかねないのである。

 

子育てに「正解」がないということは、「不正解」もないということである。子どもは親の思い通りには育たないが、それなりのものには育つ。親がよほど余計なことをしなければ。教育についてさまざまな現場を取材してきて、これはもはや私の確信になっている。

 

たとえばA地点からB地点まで歩くとき、最短ルートを行きたいと思うひともいれば、きれいな景色を見ながら行きたいと思うひともいれば、安全な道を行きたいと思うひともいるだろう。1番目のひとはそれによって時間を手に入れた。2番目のひとは感動を手に入れた。3番目のひとは安心を手に入れた。それぞれ価値が違うもの。本当は時間を手に入れようと思っていたのに、道を間違えたからこそ感動を手に入れられたということもある。子育ても同じ。

 

そういう経験を何度かすれば、どんな回り道も糧にできるようになる。言い換えれば、「不正解」だと思われていた選択を自ら事後的に「正解」に変える力を身につけたということである。自ら正解をつくり出す力をもっていれば、「正解のない時代」も怖くない。むしろどんな回り道も糧にできる力こそ、これからの世の中を生きていくには必要なのだ。

 

子どもにそういう力をつけさせたければ、まず親がそういう気持ちで生きていかなければならない。

 

※7月発刊の拙著原稿より抜粋