男性の育休義務化について議論が盛り上がっているところに、くるみんマーク取得事業者であり子育てに優しいはずの企業でのパタハラ問題が発覚し、さらに最新の育休取得率データが発表されました。議論の機は十分に熟していると思います。

 

2018年の男性の育休取得率は6.16%。私が育児誌で「ナイスパパコンテスト」の審査員とかをやっていた2005年くらいのころは1%台でしたから、それから比べればものすごい伸びたような印象を受けてしまいますが、国が目標にしている2020年までに13%は到底無理そう。まあだいぶ前からうすうすわかっていましたが。

 

男性の育休義務化については、「<義務>というのは何にしても嫌いだけどやむなしかな」という気になっていますが、今回6.16%という数字が出てきたことに対する「啓蒙ではもう無理だということは明らかだ!」という論調は、論理として雑で危険かなと思っています。もちろんそれを言っている人たちに悪気がないのはわかっていますが。

 

だって、これまでの啓蒙の方法が間違っていただけかもしれないから。実際僕はずっとそう訴えています。たとえば……

 

●無理を押しつけ合う「夫・妻・中間管理職」

はっきり言おう。これまで「男性の家庭進出」がなかなか前に進まなかったのは、「イクメンやイクボス推進運動」や「ワーク・ライフ・バランス啓蒙活動」そのものが、その表面的なメッセージとは裏腹に、実は昭和的マッチョイズムを根底で引きずっており、当事者の内面的変革を阻害していたからだ。(上記記事より)

 

そこを振り返らずに義務化だけを進めれば、当然「副作用」が大きくなるでしょう。義務化に反対はしません。でもこれから必要なのは義務化の必要性を訴えることだけではなくて、予測できる「副作用」をあらかじめ明らかにし、あえて批判を洗い出し、そこへの手当を事前に講じておくことだと思います。

 

全然違う文脈の秋発刊の教育関係の本で、批判的視点の重要性について、ちょうど執筆中なので、引用します。

 

本来「批判」とは、弱点を補強するプロセスです。市民が批判する力をもたないと、社会をより良くしていくことはできません。単に現状を批判するという意味だけではなく、より良くするためのアイディアを批判によって洗練しないと、結局現状を変えられないからです。

 

「ゆとり教育」も「働き方改革」も、予測できる「副作用」を隠して議論を進め、改革実行の前に十分な批判を浴びず、実行プランを事前に鍛え上げられなかったことが失敗の原因だったと思います。今回の義務化にともなってどんな副作用が予測できるのか、私もこれから考えて、発信していきたいと思います。

 

「批判だけなら誰でもできる」とよくいいます。おっしゃるとおりです。だからみんなで批判しなくちゃいけないんです。「批判」というより「課題の発見」といったほうがいいかもしれませんが。

 

最後に、2016年発刊の拙著『ルポ父親たちの葛藤』から、さらに詳しい部分を引用しておきます。我ながら「予言の書」であったと思います。

 

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ワーク・ライフ・バランスという名のマッチョイズム

 

 とどのつまり、長時間労働が悪いということになる。日本企業の長時間労働依存体質を変革する必要がある。しかし、アルコールにしてもニコチンにしても薬物にしても、依存症から抜け出すには大きな苦痛を伴う。「意志」とか「覚悟」とか、精神論だけでは太刀打ちできない。段階を踏んだ綿密な作戦が必要だ。

 たとえば2007年ごろには「ワーク・ライフ・バランス」という言葉が流行したが、最近は聞かなくなった。それもそのはず。もともとよほど高所得で労働時間を削って収入を落としても生活していけるような人でもない限り、仕事を減らすわけにはいかず、結果、1日24時間ではどうにも収まりきらない膨大なタスクを、どうにか24時間のうちに押し込めるだけで精一杯であり、「バランスをとる」などと悠長なことを言っていられる状況ではなかったのだ。

 「仕事を効率化すれば成果を落とさなくても家族時間を捻出できる」という言説も流行った。しかし景気停滞期に入って以降、「就職氷河期」に象徴されるように人員は減らされ、トヨタの「カイゼン」に代表されるように業務はすでに極限まで効率化されている。よほどサボっていた会社員でもない限り、それ以上業務の効率化などできるはずがなかった。そこでさらに「家族時間を捻出しろ」というのは、絞りきった雑巾をさらに万力にかけ、最後の1滴を絞り出すようなものだ。下手をすれば雑巾が破れてしまう。

 こういう後ろ向きなことを言うと、「そんなこと言っているから世の中は変わらないんだ」と説教をされそうな雰囲気すらあった。しかしそれこそが20世紀の日本企業が好んだ「やればできる、できるまでやれ、弱音を吐くな」的なマッチョイズムであるという矛盾をここで指摘しておきたい。

 キャパオーバーな分を自分が引き受けたうえに理想のワーク・ライフ・バランスを実現しようとするまじめな男性ほど、前述のようにうつ症状を発したり、体調を崩したりした。妻、会社、社会からの要望すべてに一度に応えようとして、「一人ブラック企業」になってしまったのだ。私が運営するサイト「パパの悩み相談横丁」にもそのような父親たちからの相談が多い。

 

 

「仕事で成果を出してなんぼ」の前提

 

 このような無茶な状況を、ジャーナリストで和光大学教授の竹信三恵子氏は著書『家事労働ハラスメント』(岩波書店)で次のように指摘する。「家事労働ハラスメント」とは、家事労働を貶めて、労働時間などの設計から排除し、家事労働に携わる働き手を忌避し、買いたたくことを指している。

 やや長くなるが引用する。

 

 これに先立つ二〇〇六年、父親の育児参加を支えるNPO「ファザーリング・ジャパン」も設立され、男性の家庭回帰は再度、脚光を浴びたかに見える。

 だが、ここでも、一見、再生産の再評価を試みながら、「生産のための身体としての男性をより生産的にする」という論理はなお、消えていない。ファザーリング・ジャパンのホームページでは、(中略)次のようにも語りかける。「(カナダでは)男性社員が、家族との時間を確保するのに早い時間に退社しても、上司にも同僚にも不誠実だとは思われません。それは『家庭での役割を担っている男性社員ほど、労働者としての生産性も高い』という企業を対象にした調査結果を基にした共通認識があるからです」

 (中略)

 働き手の人権としての再生産分野の評価を進めたくても、戦略的には、「生産する身体」の強化に役立つものとしての再生産分野の再評価(=再生産領域の新たな従属)を押し出さざるを得ない状況が生まれている。

 

 イクメン推進運動そのものが、「生産領域(賃労働)での成果が見込まれるからこそ再生産領域(家事や育児)への参画が認められるのだ」という仕事優先の理屈や「再生産領域よりも生産領域のほうが上位概念である」という旧態依然の価値観に乗っかってしまっているという痛烈な指摘だ。

 

 

企業にとって都合がいいばかり

 

 ワーク・ライフ・バランス推進活動についても手厳しい。

 

 そうした社会で謳われるワーク・ライフ・バランスは、働き手が自分の工夫で効率よく働き、自主的に労働時間を短くする(仕事が終わらなければ自己責任)、ただの生産性向上運動に転化しつつある。

 

 国を挙げてイクメン推進だの女性の活用だのと騒いでいても、企業が残業ゼロキャンペーンだの多様な働き方推進だのと言っていても、結局のところ「より短い時間で今まで通りかそれ以上の成果を上げなさい」ということでしかない。企業としては「ホワイト企業」をアピールしながら、社員が勝手に集約労働してくれるというわけだ。企業にとってこれ以上都合のいいことはない。

 このところファザーリング・ジャパンが熱心に取り組む「イクボス宣言」にも同様の危うさがある。イクボスとは端的に言えば育児に理解のある上司という意味。その心得としての10箇条には次のような文言がある。

 

イクボスのいる組織や企業は、業績も向上するということを実証し、社会に広める努力をしていること。

 

 イクボスは「業績も向上するということを実証」しなければいけないのだ。さきほど指摘した「生産領域(賃労働)での成果が見込まれるからこそ再生産領域(家事や育児)への参画が認められるのだ」という理屈が見事に踏襲されている。

 この理屈がある限り、「早く帰っても全然いいよ。うちは育児に理解のある会社だから。でも最低限今まで通りの成果は残してよね」という無茶が成り立ってしまう。まるで悪代官のセリフである。まさに竹信氏の言うところの「働き手が自分の工夫で効率よく働き、自主的に労働時間を短くする(仕事が終わらなければ自己責任)、ただの生産性向上運動」なのだ。

 

 

どこかで誰かが割を食っている

 

 はじめは企業にとって都合の良い理屈を見せておいて、労働時間を短くできれば、結果として長時間労働文化が廃れるという作戦のつもりかもしれない。しかしそうなる前に労働者がすり切れてしまうのではないだろうか。

 ある中小企業の経営者はこう嘆く。「大企業が業務効率化だの残業ゼロだのと言い出すと、結局私たち下請けにしわよせがくるんです。業務効率化とか残業ゼロだとか言うのなら、その分業績が下がるのが当たり前でしょう。私たち中小企業においては、特にメーカー系の業界においては、労働時間と売り上げは直結します。でも、ホワイト企業をアピールしたい大企業では、労働時間を削減しても業績の悪化は絶対に認められないわけですから、差分は誰かが埋めなければいけない。結局私たち下請けが買いたたかれ、残業をすることになるのです」。

 「好きなだけ食べてもやせる」とか「お金を預けておくだけで勝手に増える」などは、聞いただけで「あり得ない」とわかる。「労働時間を減らしても業績は下がらない」だって同じだ。詐欺同然の物言いである。もしそんなことがあったら、何かからくりがあり、どこかで誰かが割を食っているはずだと考えるのが当然だ。あるいは今までよほどサボっていたことの証拠でしかない。

 そんな口車に乗っているようでは、日本の企業の体質が本質的に改善されることなどないだろう。むしろ日本の企業の旧態依然とした体質をだましだまし維持することにつながりかねない。

 将来的に、真に仕事と家庭を両立できる社会を目指すのなら、被雇用者としては、無理なものには無理と言い続けるべきではないだろうか。安易な「生産性向上運動」には加担すべきでないことを提言しておきたい。

 

※『ルポ父親たちの葛藤 仕事と家庭の両立は夢なのか』(おおたとしまさ著、PHP刊)より