新刊『世界7大教育法に学ぶ才能あふれる子の育て方 最高の教科書 正解のない時代を「たくましく生きる力」を育てる』が、本日より全国の書店に並び始めます。正解のない時代をたくましく生きる力を育てる世界7大教育法(モンテッソーリ、シュタイナー、レッジョ・エミリア、ドルトンプラン、サドベリー、フレネ、イエナプラン)の理念と実践が網羅されている1冊です。いきなりですが、その「おわりに」を転載します。

 

 

おわりに

 

 「どんな教育法ならうちの子の学力を上げられるのか?」という観点でいえば、本書から得られる収穫は少ないかもしれません。

 一般的なテストで良い点数をとることを〝学力が高い〟とするのなら、もっともてっとり早くて確実な方法は、テストに合わせた問題集をガリガリやることです。本人がどれだけ努力するかです。はっきりいって、教育法なんてほとんど関係ありません。

 筋トレに似ています。いかにすぐれたメソッドのあるジムに入会しても、通うだけで筋肉がつくわけではありません。結局のところ、本当に効果がでるかどうかは、本人がどれだけ身体を動かすかにかかっています。同様に、どんな教育法を選んだって、ただ通うだけで成績が上がるなんてことはないんです。要するにどれだけ自分で手を動かしたかです。

 テストで高得点をとることを〝勝ち〟とするならば、大量の課題をこなす処理能力と忍耐力、そして与えられた課題に疑問を抱かない力が有利に働きます。この3条件をもつひとが、日本の受験システムの〝勝ち組〟になりやすい。

 たしかに大きな目的をもった大きな組織に所属して、その一員として自分の意志や個性を脇に置いて仕事できる大人を育てるなら、そのようなルールは非常に合理的かもしれません。

 しかし「そもそもそれって意味あるんだっけ?」「そのルール自体を変えません?」と、本書で紹介した各教育法は私たちに問いかけているのです。本書を著すなかで得た私にとってのいちばんの発見は、いまと100年前とを比べても、教育者の嘆きや問題意識が恐ろしいほどに変わっていないという事実です。

 既存の枠組みにそぐう「材料」としての人間を育てることを、「人材育成」といいます。でもそれは「教育」とは似て非なるものです。

 そうではなくて、もって生まれた個性をそれぞれに伸ばし、提供し合い、主体的に新しい社会の枠組みをつくる、すなわち未来をつくることのできるひとたちを育てる「教育」を真剣にやりましょうよというのが、これらの教育法に共通する理念なのです。

 モンテッソーリ教育を受ければ中学受験で有利になるのかとか、イエナプランを採用すれば国際学力調査で世界1位になれるのかとか、そういう目的ありきの発想では、本書で紹介した教育法はその力を十分に発揮できないでしょう。

 テストで点をとるのが得意な個性をもって生まれた子どもなら、これらの教育を受けることで、その才能が伸ばされるでしょう。でもおなじ教育を受けたとしても、たとえば芸術の才能がある子どもなら、テストの点ではなく芸術の才能が伸びるはずです。スポーツが得意ならスポーツの才能が伸びるはずです。

 そしてその才能を、どのようにすれば他人の役に立てることができるのか、すなわち社会に還元できるのかを実践的に学ぶところが、「学校」なのだろうと思います。

 「先行き不透明なこれからの時代を生きる子どもたちには、どんな能力が求められますか?」というような質問をよくされます。私は毎回次のように答えます。

 「そこそこの知力と体力。そして、やりきる力。そこまであれば、個体としての生きる力は十分。でも特に先行き不透明な時代には独りでは生きられない。そこで必要になるのが、自分にはない能力をもつひとたちとチームを組んで協働できる力。つまり、そこそこの知力と体力、さらに、やりきる力と、自分にはない能力をもつひとたちとチームを組んで協働できる力があれば、どんな時代になっても生きていける」

 いわゆる「生きる力」と「生きるためのスキル」は違います。「これからの時代には、英語ができなきゃ始まらない、プログラミングもできなきゃ不利、プレゼンテーションが重要……」などとよくいわれますが、これらは所詮は「生きるためのスキル」にすぎません。

 たしかに時代によって必要なスキルは変わります。でも、それを予測するのは不可能です。先行き不透明な時代なのですから。

 予測が不可能だからと、「生きるためのスキル」をあれもこれも子どもに与えるのは、使うかどうかもわからないアプリをスマホにやたらとインストールするようなものです。いくらアプリをインストールしたって、スマホそのものの性能が悪かったら、新時代では使いものになりません。

 必要なのはたくさんのアプリをインストールしておくことではなくて、スマホそのものの性能を上げていくことです。そうしておけば、来たるときに必要な最新のアプリをさくっとダウンロードして使いこなすことができるはずです。

 「将来AIに仕事を奪われないためには、どんな教育が必要でしょうか?」という質問もされます。次のように答えます。

 「どんな教育でもいいのですが、肝心なのは、いっしょに働きたいと思われるひとになることです」

 要するに、これからの学校教育の役割は、いや、本来の学校教育の役割とは、みんなおなじように能力を高めクラスの平均点を上げることでなく、それぞれに個としての能力を高め、自分の得意・不得意を自覚し、社会のなかで自分をうまく活かせる場所をみつける能力を養うことだといえるのです。

 全国津々浦々どこでも最高レベルの映像授業が受けられるとか、AIを利用して個別の習熟度に応じた課題を設定するしくみとか、インターネットでネイティブスピーカーとマンツーマン英会話ができるとか、時代の最先端をいくようなとりくみも結構ですが、それ以上に本質的なのは、個々の違いを認めて、個性を補い合うことのできる環境を整えることです。

 しかし日本の学校制度がそうなるには、まだまだ時間がかかりそうです。ではどうしたらいいか。

 親の心のなかにモンテッソーリやシュタイナーやフレネやサドベリー的視点があれば、日本の学校が本書で紹介したような学校とは大きく違う状況にあったとしても、不足を補うことができ、子どもは「自分らしく」育つ。無数にある幸せになる方法のなかから自分なりの方法をみいだす。だって子どもたちには「みずから育つ力」が備わっているから。子どもの近くにいるだれかがそれを心の底から信じて見守っていてくれることが、子どもの「みずから育つ力」を活かす最強の方法だから。私はそう思います。

 その意味で、ひとりでも多くの親御さんの教育的視野を揺さぶり、広げることができたのだとしたら、本書を著した意味が大いにあったと思います。

 そうはいっても、社会として、学校も変えていかなければなりません。たとえわが子が子どものうちには間に合わなくても。

 そのときに足枷かせとなるのが、社会全体にはびこる「あたりまえ」です。

 ひとはだれでも、自分が受けてきた教育を「あたりまえ」だと思ってしまいます。だから、「学校には行くもの」「先生の命令は絶対」「なんだかんだいってテストの点数で人生が決まる」などという思いこみから離れられません。でも、本書にあるような教育を知ることで、教育や学校に対する思いこみから自由になれます。

 個人がそれぞれに「あたりまえ」を脱ぎ捨てた集積として、社会が「あたりまえ」から解放されたとき、ようやく「学校」も変わることができるでしょう。

 本書がその変化をうながす一助となることを願います。

2019年3月 おおたとしまさ