町田の高校の暴行・炎上事件は、いろいろな意味で残念な事件だったと思う。しかしそれで終わりにしてはいけないとも思う。背景には学校や社会をめぐるもっと普遍的な問題があるはずだ。社会のあり方は学校のあり方を規定するし、学校のあり方は未来の社会のあり方を規定する。

 

以下、脈絡なく、雑感的に。

 

「あの状況で殴らなくても生徒に言うこと聞かせられるのかよ!」という意見に対しては、そもそも「学校においては生徒を力尽くでも従わせなければいけない」という信念をいちど疑ってみる必要があるし、社会が「権威に対して従順な生き物として子供を育てるために学校を利用する」という構造自体が問題だと指摘しなければいけない。

 

「学校は絶対」「学校の先生は絶対」「学校の授業を受けないひとはダメ」という旧来の刷り込みは、以前からこの社会において2つのネガティブな風潮を生み出してきた。

 

1つは「学校」に不適応なひとたちを「社会」自体からのドロップアウトと見做す風潮。もう1つは学問にせよ技術にせよマナーにせよ、子供に押しつけたいものはなんでも「学校で教えることにすればみんなそれに従うはずだ」という認識のもと、学校の負担がどんどん増えていく風潮。

 

産業革命以降の管理的学校システムがファシズムに利用されやすいことは歴史が証明している。それを防ぐという歴史的文脈のなかで、レッジョ・エミリア教育、フレネ教育、イエナプラン教育などのいわゆる「新教育」が登場した。

 

フリースクールの草分けと言われるイギリスのサマーヒル・スクールの創始者ニイルは次のように述べている。

 

「子供たちは学校で幸福であらねばならない。どうすれば幸福を与えられるか? ——私の答えはこうだ。教師の権威なんかなくしてしまえ、子どもは子どもなんだ、押しつけるな、教え込もうとするな、無理やり話を聞かせるな、評価なんかするな、何事も強制するな……私の答えは、あなたがたのと違うかもしれないが」(『教育に強制は要らない』(大沼安史著、一光社)より)

 

ちなみにニイルは、教員を採用するとき「君はもし子どもたちに、くそったれめ、と言われたらどうするかね」と、いつも聞いたと伝えられている。サマーヒル・スクールの流れを汲んで、サドベリー教育が生まれている。

 

話を戻す。

 

「これは殴って当然だろ」みたいに言うタレントもいるが、もし彼らが街中で高校生からあの勢いでからまれても、絶対に殴らないと思う。殴ってしまったらおしまいだとわかっているから。それなのになぜあんなことを言うんだろう。

 

「学校では教師が生徒を従わせるのが当然だから」と考えているのであれば、その前提となっている「学校観」「教師-生徒観」「子供の人権観」を疑ってみなければいけない。「学校」という権力のもとに力尽くでも子供たちが従順さを押しつけられるのは「世界の基準」からすれば「当然」ではない。

 

あの高校生たちを擁護しているんじゃない。つい魔が差してしまったあの先生を責めたいんじゃない。全国の高校生が「先生に楯突いたら殴られて当然なんだ」と思って学校で萎縮しちゃったり、社会として学校をさらに絶対権力化する方向に進むのはダメだということ。

 

ちなみに、かつての教師がやっていた「体罰」というのは「歯を食いしばれ!」といってビンタするとか、げんこつを落とすとか、明らかに「罰」として肉体的痛みを与えることであり、ついカッとなって不意に右ストレートを食らわせるのは「体罰」ですらないことも指摘しておかなければならない。

 

以下、拙著『追いつめる親』より抜粋。

 

 実は「国連子どもの権利委員会」は1998年から2010年まで3度にわたり、「高度に競争的な学校環境が子供のいじめ、精神障害、不登校、中退および自殺を助長している可能性がある」などと日本に対して勧告している。しかしそれがメディアで取り上げられることは少ない。

 武蔵大学の武田信子教授も、日本の学校そのものが広義での「教育虐待」の温床になっている可能性があると指摘する。「学校によっては、教師から生徒への権力による押さえつけ、決して弱者に対してでなければなされないような強制、使われないような言葉遣いや態度が見逃されていることがあります。子供たちを萎縮させ、主体性を剥奪しかねないこの国の教育の現状をこのまま続けて良いのでしょうか」と訴える。

 

以上。

 

ブラック労働の問題も含めて先生たちの人権ももちろん守らなければならないが、ブラック校則なんかの問題も含めて学校における子供の人権を守ることにも社会の目が向けられるべきだと思う。「生徒版MeToo」のような運動があってもいい。

 

かつては「家庭」において、「家長」である「夫」の指図に妻が背いたら殴られて当然とされていたこともあった。いまではそんなこと許されない。それと同じ。「学校」において、「教師」に従わなかったら殴られても当然というような考えは古い時代のものとして棄てなければいけない。「管理する側される側の構造」「尾崎豊的学校風景」からの脱却。それこそ教育のアップデート。

 

単なる理想論を言っているわけではなくて、こういうことは教育学の世界ではちゃんと研究されている。「ダークペタゴジー」に関するこの記事がわかりやすい。以下、一部を引用する。

 

ダークペダゴジーの実質は前述のとおり学習心理学でいう「恐怖条件付け」ですので、「立ちすくんで問題行動を中断する」「言われるままに動く」といった子どもの反応は期待できます。しかし、当然ながらデメリットも多く、精神的に萎縮して罰の回避を最優先とするため創造的な行動や複雑な行動もまた抑制されます。そのことは自発的で活発な学習活動の息の根を止めることになります。

 

また、ダークペダゴジーは常用することによって被害者の側に耐性の獲得が起こりますし、子どもは大人を自身の役割モデルにしますので、罰せられる経験を通じて「罰せられた理由」を学ぶだけでなく「罰を与えること」を学びます。実際、攻撃的・命令的な大人の振る舞いが子どもに模倣学習されることは多くの実験で明らかになっています。

 

時には指導を受けた本人やそれを目撃した周囲の子どもが「足手まといの奴には何をしてもよい」「強い者に従え」といった過剰学習を起こしていじめが発生することになる場合もありえます。また、弱者への攻撃転移、嘘や取り繕い、不登校といった行動の発現も危惧されています。

 

ダークペダゴジーの代替案としていくつかの案がすでに提案されています。そのなかで広範に有効性が認められているのは、教師が強権によって問題行動を制圧し続けるかわりに、平和的に話し合うことでトラブルを乗り越えられるような「仲間づくり」を進めていくという方向性です。

 

共通するのは「子ども一人ひとりの声を聴くこと」「全員でしっかり話しあってルールを決め、それを守るために一致団結すること」「トラブルが起こったら丁寧に当事者の話を聞く機会を作り全員でその解決に向き合うこと」などです。こうした理念を実現するためには大変な時間と労力がかかりますが、即効性はないものの効果は徐々に蓄積していきますし、最終的には生徒自治という高みへ到達することができます。

 

以上。

 

学校において基本的人権や民主主義を体験しなければ、そういう意識がない大人になるのはある意味当然。それでは社会が劣化する。ときには教員による生徒への暴力すらいとわない昔の学校のほうが良かったというひとがときどきいるが、その結果が、いまの社会や政治のありさまではないのか。画一的管理教育によって、たしかに科学技術や産業は発達したが、もっと大事な何かがないがしろにされていなかったか。