感覚的に「習得」するのと、論理的に「学ぶ」のは違う

 

 各界の最前線で活躍する学者やパフォーマーが、最先端の知見を短時間でプレゼンテーションする動画を毎日配信しているTEDというインターネットサービスがある。ときどき英語のリスニングの練習を兼ねて私も観る。

 

 先日観た、いかに言語が人間の思考を形づくるかというテーマは非常に面白かった。アメリカの認知科学者レラ・ボロディッキーのプレゼンだ。

 

 左右の概念をもたず常に東西南北で方向を表す言語を話すひとたちは方向感覚が鋭敏になる。「橋」を女性名詞として扱うドイツ語では「橋」に「美しい」「優雅」などの女性的な形容詞が付きやすいが、「橋」を男性名詞として扱うスペイン語では「強い」「長い」など男性的な形容詞が使われやすい。腕を骨折すると、英語では、”I broke my arm.”というが、大方の言語で「私は自分の腕を折った」と言えば、気でも狂ったのかと思われる。

 

 私にも覚えがある。中学生のころ、”May I have a folk.”という文章を学んだ。衝撃だった。日本語では「フォークをください」と言う。日本語では相手と自分をつなぐ「くれる」という動詞が使われる。しかし英語の文には、相手の存在がない。どんな手段であれ、最終的に自分がフォークを手にしていればいいのだ。

 

 最後にボロディッキー博士は言う。「これは自問する機会を与えてくれるでしょう 」。「なぜ自分はこんな考え方をするのか?」「どうすれば違った考え方ができるだろう?」。自分の言語を他の言語と比較することで、自分の思考を知り、変えることもできるというのだ。

 

 外国語を学ぶいちばんの価値もここにあると私は思う。

 

 論理的に外国語を学ぶことで、無意識で扱えてしまっていた母国語が相対化される。すると母国語を思考のツールとして意識的に使いこなせるようになる。丁寧に論理的に思考を言葉にしていく作業を重ねると、自分でも思いもよらなかった概念的発見ができることがある。思考の次元が変わる。

 

 これは「感覚的」にコミュニケーションツールとしての外国語を「習得」することでは得られないメリット。バイリンガル教育をするのはいいけれど、その場合、論理的思考ができるようになる12歳前後から第2外国語を「論理的」に「学ぶ」機会を設けたほうがいい。

 

外国語を「学ぶ」機会が思考力を向上させる

 

 アメリカの国務省によれば、日本に赴任する駐在員が日常会話レベルの日本語をマスターするまで約2760時間を要するという。英語に近い言語なら約480時間でいい。それだけ英語と日本語はかけ離れている。学べばそれだけ思考が広がる。

 

 この効果を得るために、なにもペラペラになるまで外国語をマスターする必要はない。学べば学んだ分だけ、思考は広がる。それは自分の内なる宇宙を広げることだといってもいいし、宇宙を観る解像度を上げることだといってもいい。

 

 この効果に比べれば、日常会話程度の外国語が話せることなどさほどの価値もない。特にビジネスの上での意思伝達ツールとしての語学力は、近い将来、まったく違和感なくリアルタイムに同時通訳してくれる自動通訳機にとって代わられるだろう。そのために約2760時間を費やすくらいなら、いろいろなひとと話して、いろいろな冒険をするといい。さらに宇宙を見る目が広がる。

 

 いま、日本の英語教育も変わろうとしている。「4技能」「使える英語」の「習得」を重視しようという方向性だ。せっかく勉強するのだから話せるようになりたいのは当然だ。しかし英語を話せるように「習得」することばかりに重点を置きすぎて、英語を外国語として論理的に「学ぶ」ことをおろそかにすると、おろらく私たちの思考力も日本語力も低下する。

 

 英語の学習者そして指導者は、そのことを忘れないでほしい。 

 

 

※2018年6月および9月の新聞広告に寄稿した文章を転載しています。