甲子園だとかオリンピックだとか、見ればまあ、人並みに感動する。しかし同時に思う。トップアスリートでなくても、市井のひとたちの人生にもそれぞれにテーマがあり、ストーリーがあり、必死に生きている。必死に生きることができない状態にあるひとは、きっとそのこと自体が大きなストーリーの一部である。

 

社会のリーダーになるとか、世の中にイノベーションをもたらすとか、世間のスポットライトを浴びるような活躍をするひとは、それはそれですごいけれど、そうではないひとたちだって、自分の人生に与えられた責務を愚直に果たしながら立派に生きている。その人生に上も下もない。

 

「社会のリーダーを育てよう」とか「時代はイノベーターを求めている」とか、そういうのが好きなひとはそうやって騒いでいればいい。でも、社会における教育の意義は、「自分は、社会の片隅で自らの人生に対する責務を果たして真面目に生きています」と堂々と言えるひとを育てることではないだろうか。

 

「偉人」「異端」と呼ばれるようなひとの人生は万人にとってわかりやすい。具体的なロールモデルとして立ちやすい。一方、実際に社会の片隅で自分に与えられた人生の責務を自分なりに果たして愚直に生きているひとの人生の価値は、世間一般にはわかりにくい。万人にとってのロールモデルは見つけにくい。

 

そんななか、山中で3日間不明になっていた2歳児を救出した「スーパーボランティア」が一躍ヒーローになった。おそらく社会の片隅で自分に与えられた責務を愚直に果たすなかで、たまたま今回脚光が当たってしまったのだろう。メディアからヒーロー扱いをされても一向にヒーロー面をしないところにまた共感が集まった。

 

メディアを通してでも彼の純粋で愚直な人生観が伝わってくる気がする。彼なんてまさに、めったにスポットライトを浴びることはないけれど、社会の片隅で自らの人生に対する責務を果たし、真面目に生きているひとのロールモデルだと思う。でも彼だけが特別なのではないと私は思う。世の中の多くのひとは彼と同じように、愚直に必死に生きている。人知れず社会に貢献している。世の中に貢献していないひとなんていない。つまり、世の中、みんな、ヒーローだ。

 

一握りのド派手なヒーローを輩出する代わりにその他大勢に劣等感を与える社会より、ド派手なヒーローなんていなくても、みんなが自尊心をもって「自分は、社会の片隅で自らの人生に対する責務を果たし、真面目に生きています」と堂々と言える世の中をつくるために何ができるか。そんな観点でこれからも「教育にできることは何か?」と問い続けていきたいと思う