夏休み真っ盛り。受験生は大変だ。自らの目標に向かって頑張ってほしい。

 

でも、最近の子供たちは受験生ではなくても、夏休みにもしっかり宿題が出て、結構忙しいようだ。毎日コツコツ勉強しないと終わらないような課題が出されていることもある。

 

結果が出るまで何日間もかかる実験をやってみるとか、いろいろなところに行ってみないと完成しないレポートを書くとか、そういう宿題ならわかる。でも、夏休みにコツコツとドリル系の宿題をやらなきゃいけないというのはいかがなものか。

 

おそらく自律性を身に付けるという意味があるのだろう。ドリルをやったり、元素記号を覚えたり、夏休みの間にもコツコツ勉強すれば、2学期のテストではいい点数が取れるかもしれない。たしかにそれも大切だ。

 

でも、「ありあまるほどに時間がある」状況を体験することも、夏休みという期間にしかできない体験だと思う。

 

何もすることがなくて、とにかくだらけるだけだらけて、自分の怠惰に自己嫌悪まで感じてようやく自ら「課題」を見つけて動き出すというプロセスこそ、夏休みに若者が経験すべきことではないかと私は思う。

 

それこそ本当の自発性の萌芽。

 

自分の怠惰に嫌気がさして、「よし、いっちょこれをやってみよう!」と思って始めたことには夢中になれる。

 

それが犬小屋作りでもいいし、長編漫画の全編読破でもいいし、見知らぬ土地への一人旅でもいい。

 

他人が見たら苦行にしか見えないことに夢中になっている自分に驚く。何かに夢中になれる自分が自分の中にいることを知る。

 

そのとき「自分はこう言う人間なんだ!」と気付く。自分の心の声が聞こえる人間になる。自分の心が動く瞬間がわかるようになる。そういう経験をすることが、人生において、目先の点数を上げることよりも何倍も大切だと私は思う。

 

夢中になって取り組んだことを最終的にレポートにまとめて、それを「自由研究」とするのなら、それが夏休みの宿題としては最高ではないか。あくまでも義務ではない形で。「40日間ずーっとぼーっとしてみて思い浮かんだこと」というレポートだってかまわない。

 

ただし、そこで大人が「こんなの何の役にも立たない」とか言ってしまったら、せっかくの自発性の芽を潰してしまう。あるいは子供が自分の怠惰に嫌気がさす前に「いつまでもダラダラするな!」などと親が言ってしまったら、自律の機が熟すのを邪魔してしまう。これでは自発性は育たない。そんな機会損失が、ニッポンの夏に、至るところで行われているのではないだろうか。もったいない。

 

それでいて大人たちは「いまの若者は自発性が足りない」などという。当たり前だ。大人こそ子供を信じて「見守る」覚悟が足りないのだ。そういう大人こそ、会社を定年退職した後に、新たにすべきことを見つけられず、いつまでも「現役時代」の武勇伝を語るだけの余生になってしまうのではないだろうか。

 

ぼーっとする時間とは、自分の無意識との対話。自分がどんな人間なのかを知るために貴重な時間。子供のうちにたくさんのぼーっとする時間を過ごさないと、自分自身の心の声が聞こえないひとになってしまう。自分の心の声が聞こえないから、代わりに世間の目を気にして生きるようになる。もったいない。

 

「少年老いやすく…」とも言うけれど、まだ人生の目標も見つかっていない子供にとっては、ぼーっとする時間も大切だということ。映画の「スタンド・バイ・ミー」みたいに。

 

人生100年時代。子供のころのたった40日間の夏休みをケチケチ過ごしてどうするの。無意味な時間の意味は、往々にして後からわかるものである。

 
※2018年8月2日放送のJFN「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容を書き起こしたものです。