2022年4月から、ルールが変わる。18歳からが成人だ。といっても、酒・タバコ・ギャンブルは、20歳になるまでできない。最近の若者はいずれもあまりやらないというからそもそも関係ないかもしれないが。

 法的には、さまざまな契約に保護者の署名が不必要になるなどの違いはある。それによって、まだ社会的に未熟な若者が、だまされたりということは起こりえるかもしれない。かといって、若いからだまされるというわけでもない。30歳になったって、40歳になったって、60歳になったって、だまされるひとはだまされる。

 成人年齢が18歳に引き下げられたからといって、何かが変わったようには、多くのひとは感じないだろう。成人になる18歳にとっても。

 ときに「成人」とは何か。辞書によればすなわち「おとな」とある。「おとな」とは何か。誰にもわからない。生物学的にいうのなら、性的に成熟し、生殖活動を行えるようになることを示すはずだ。しかし「成人」には、そのニュアンスはない。一人前の判断力をもって社会活動に参加できるようになるというニュアンスがある。

 社会活動に参加できるようになるためには、社会のルールや一般常識をわきまえておかなければならない。それを身に付ける場が、家庭であり、地域であり、学校である。特に現代社会において、学校への期待は高まるばかりだ。

 義務教育は15歳程度までである。義務教育を過ぎたということは一通り世の中のことを学んだということではないのか。しかし世界的に見ても、義務教育の終了と成人年齢は一致しない。最低限学ぶべきことは学んだが、一人前になるにはまだ早いというグレーゾーンが存在する。

 このグレーゾーン、最低限学ぶべきことを学んだうえで、実際の社会の中でそれを活用してみて、ときに失敗し、試行錯誤しながら一人前になっていく期間だととらえることができる。だから、少々の失敗なら「未成年」という免罪符で大目に見てもらえるという意味合いがある。このグレーゾーン期間中に、どれだけたくさんの挑戦・冒険をして、どれだけたくさん失敗することができるかが大事だ。その「大目に見てもらえる時期」が、今回減るわけだ。その意味をよく考える必要がある。

 私は最近『開成・灘・麻布・東大寺・灘は転ばせて伸ばす』という本を書いた。中高生時代にたくさんの失敗を経験することが、その後の人生において大切だという内容だ。しかし先生たちは口を揃えて憂いていた。「いまの日本はますます失敗に不寛容な社会になっている」。

 不祥事があればすぐに責任問題に発展するから誰もリスクを取らない。何でもルールでがんじがらめにして、管理しようとする。学校の現場もその風潮に飲み込まれている。特に昨今は教員の過重労働が問題になっており、先生たちにも余裕がない。管理教育が止まらない。

 成人年齢の引き下げが、「他人の失敗に不寛容な社会」のムードに拍車をかけないことを願う。

 

※2018/6/21 JFNラジオ Oh! Happy Morningでお話しした内容の書き起こしです。