九州の高校で「朝課外」が常態化していることが報道され、物議を醸している。いわゆる「0限目」の指導。福岡県内の普通科高校の9割近くが実施している。九州の学校を取材すると、それが当たり前のこととして語られる。私も「九州の学校文化」としてとらえていた。

 

もともとは塾や予備校が少ない地域で、1970年代から、教育機会の不足を補う目的で始められた経緯がある。建前上は任意参加のはずであるが、現実的には「0限目」の普通の授業になっているケースも多い。

 

1970年代といえば、産業構造の変化から教育熱が高まり、高校進学率が急上昇した時代。同時に塾が乱立した時代。塾で学ぶ機会の地域差を埋めるために、出てきた発想である。

 

今回は九州地方での「0限目」に注目が集まったが、北陸地方では実は「7限目」が常態化している。朝追加するか、夕方に追加するかの違いでしかない。暖かい九州地方では朝型、雪も多い北陸地方では夕方というわけだ。

 

教育にも地域独特の文化があり、当事者にとっては「当たり前」でも、部外者から見ると奇妙に見えることも多い。首都圏の中学受験文化もその一つだといえる。

 

地方に独特の学校文化という意味では、岡山県の高校に見られる「補習科」というのも、最初に聞いたときには驚いた。公立の高校の中に、浪人生が通うコースがあるのだ。要するに高校の中にある予備校だ。非常に低額で、「卒業生」に対し高校の教員が毎日授業をしてくれる。

 

拙著『地方公立名門校』は、全国の地域の教育文化についても垣間見られるようになっている。

 

その中でも触れているが、塾や予備校に通わなくても学校で完結できるというのは1つの理想ではあるが、デメリットもあるのだ。

 

平常授業以外の時間までを拘束し、受験勉強の計画の立て方や予習・復習の仕方やノートの取り方まで学校が指図するようになると、たしかに塾や予備校の入り込む余地はなくなる。しかし学校のやり方が、生徒全員にフィットするとは限らない。学校のやり方が合わない生徒もいるはずだ。

 

拙著『地方公立名門校』では、地方公立高校出身の現役東大生9人のインタビューを掲載している。全体的に塾への依存度が低いのだが、中には「学校のいいなりだったのが現役で不合格になった原因だった」と振り返る東大生もいた。

 

かといって、1クラス40人×3〜5クラスという大集団単位で構成される日本の高校で、生徒一人一人個別に学習法を指導することなでほぼ不可能。これが「学校」というしくみの限界。

 

学校が画一的な勉強の仕方を生徒全員に押しつけると、それが合わない生徒にとっては苦痛でしかない。伸ばせる学力も伸ばせなくなってしまうかもしれない。塾や予備校がそのような子供たちの受け皿になっている場合も多い。

 

学校の先生からしてみれば「自分の指導に従わない生徒」という見え方になるのかもしれないが、1学年100人以上を同時に教えているはず。自分が教える生徒全員が、自分の指導に合うと考えるほうが無理筋だ。

 

塾や予備校に通うことを否定するなら、もっときめ細やかな指導ができるように教員数を増やさなければいけないだろうし、それができないのなら、塾や予備校に通うことに対する罪悪感を、子供たちに感じさせてはいけない。

 

塾や予備校に通うお金がない場合にはどうすればいいの?という問題は残る。するとやはり、学校が、0限や7限を使って指導する必然性も否定できない。ただ、その趣旨で言うならば、0限や7限は、個別の生徒への決め細やかな指導のために使われるべきであり、全員強制というのでは話しが違う。

 

現在「教員の働き方改革」や「ブラック部活」、「ブラック校則」などをキーワードに、学校を舞台に「当たり前」とされてきたことをもう一度疑ってみようという気運が高まっている。学校って何だろう?ということを今一度考えてみる機会にしたい。