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 ハリウッドの有名映画プロデューサーがセクハラを告発されたことをきっかけに世界中でセクハラや性暴力、性の商品化についての関心が高まっている。当然ながら批判的な文脈で。性的なもののみならず、人種や文化に対する差別にも厳しい目が向けられるようになっている。

 性暴力や露骨なヘイトは言語道断。しかしセクハラや差別表現となると線引きが難しい。文章で表現する立場としても、最近は昔以上に言葉選びには慎重にならざるを得ない。かつては賞賛を浴びたかもしれない武勇伝をこれみよがしに語ってみても、いまでは逆に冷や水を浴びせられることになるだろう。

 「息苦しい世の中になったものだ」という声も聞こえてきそうだ。その通り、そういう人にとっては息苦しい世の中になったのだ。でもそれは、ほかの誰かがこれまで息苦しい思いをしていたことの裏返しでしかない。時代とともに価値観が変化するということであり、良くも悪くもグローバル化の影響でもある。

 これからの時代を生きる子供たちの教育に携わる塾業界人には、これからの基準に合わせて表現を選び、言動に注意する責任がある。

 思えば体罰だって、ちょっと前まで当たり前だった。しかしいま、体罰やパワハラもどきの高圧的な手法に頼って生徒を操作しようとする教育者はいくら教えるのがうまかったとしても熟達した教育者として認められない。

 セクハラにも体罰にも共通するものがある。いずれもやっているほうは、それにもそれなりの効果があると思っていることだ。ちょっとしたセクハラはコミュニケーションの一環で、人間関係をスムーズにする潤滑油の役割を果たす。ちょっとぐらいの体罰は、子供に危機感をもたせブレイクスルーをもたらすことがある。そういう理屈である。

 しかしセクハラで本当に悩んでしまうひとがいる。体罰で立ち直れないほど心を折られてしまう子供もいる。それを、上司とか先生とかいう強い立場を利用して行うのなら、それは程度によらず暴力である。ちょっとしたセクハラだって立場を利用していたら立派な性暴力になる。教育的な効果を狙った体罰だって、人の身体を痛めつけることは、効果があるかないかの問題ではなく立派な暴力である。精神的に追いつめるパワハラも、構造的に同様だ。

 いま、国を挙げて「働き方改革」も叫ばれている。世間で盛んに議論されている時間と給与の関係や勤務スタイルは、塾業界の慣習とは食い合わせの悪いものだろう。しかしここでいつまでも世間の感覚と乖離した勤怠状況を放置していたら、業界全体が世の中から取り残されてしまう。ますます人材難になってしまう。

 この国の塾という文化は、常に時代の変化に応じて柔軟に変化し、進化し続けてきた。これからの世の中は大きく変わるから、教育も変化しなければいけないとはよくいわれるが、変わらなければいけないのは教育の中身だけでなく、塾業界の体質もしかりではなかろうか。

 

※月刊「塾と教育」2018年3月号に寄稿した記事を転載しています。