名古屋市の中学校で元文部科学省事務次官の前川喜平氏が生徒向けの授業で講師を務めたことについて、検閲とも捉えられかねない問い合わせを文部科学省が行っていたことが、報道されている。自民党議員が文部科学省に働きかけたとの報道も。野党だけでなく与党からも行きすぎた行為との批判の声が高まっている。

 

そもそもなぜ国が教育に介入してはいけないのか。教育の中立性あるいは独立性が保たれることが、民主制(民主主義)を運用する前提だからだ。

 

民主制とは、世の中の人々が、世の中で起きていることを知って、未来への方針を決めるしくみのこと。「知る」ためにはメディアが必要。しかしメディアだけでは不十分。メディアが提供する情報を自分で読み解き未来に向けての判断をする力が必要。その能力を担保するのが教育の役割。

 

メディアと市民が世論を形成する。世論は権力を監視する役割を担う。メディアの能力と市民のリテラシーが世論の質を決める。質の高い世論があれば、権力の暴走は未然に防がれ、政治の質も高まる。

 

もし、メディアや教育が時の権力の影響を受けていたら、時の権力に都合の良い情報ばかりが世間に伝わり、時の権力に都合の良い解釈ばかりが流布することになる。時の権力を批判的にチェックする機能が弱まる。権力の暴走を招きかねないだけでなく、社会の変化を促す力が低下し、社会の新陳代謝が起こりにくくなる。長期的に見れば、これが社会の停滞を招き、最悪の場合社会の死を招く。

 

メディアの中立性や教育の中立性と、「中立性」という言葉がよく使われるが、「中立」という概念自体が幻想である。完全に中立ということなどあり得ない。健全な世論を形成するために必要なのは「中立性」よりも「独立性」であり「多様性」である。

 

権力からの影響をできるだけ受けないように、メディアや教育の独立性が保たれることがまず大事。そして、単体のメディアや単体の教育システムがそれぞれに中立性を保とうとするのではなくて、多様なスタンスのメディアや教育システムが共存することで、結果的に全体として中立性が保たれるのだ。

 

だから、「ある立場」から見て「右過ぎに見えるから」とか「左過ぎに見えるから」という理由で、メディアや教育に介入があってはいけない。さまざまなスタンスのメディアや教育があることで、結果としての中立性が保たれるのであり、社会はそれを受け入れなければいけない。

 

メディアや教育の独立性が守られないのだとしたら、その社会の民主制はすでに危機的状況にあると考えていい。そうなることを未然に防ぐために、権力によるメディアや教育への介入には慎重すぎるほどに慎重でなければならないし、世論は過敏なくらいに敏感に反応しなければいけない。

 

前川氏を講師として招くことが是か非かは別にして、今回の文部科学省の動きは教育の現場を萎縮させ、教育の独立性を脅かす行為である。それが与党議員の働きかけによって行われたのであれば、メディアや市民は猛烈に抗議しなければいけない。

 

教育改革の議論が盛んだが、そこにも注意が必要だ。教育の制度をつくるのは国の仕事だが、教育の中身をつくるのは国の仕事ではない。

 

教育の中身をつくるのは、その時代に生きて、次世代のことを思う、多様な「人々」である。そういう人々のことを「教育者」という。今の世の中に多様な教育者がいれば、社会の中立性は保たれやすくなり、次世代の社会はより多様な社会になり、イノベーションが起こりやすくなる。

 
※2018年3月29日にJFN「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容を掲載しています。
 
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