朝のワイドショーで、弱った子スズメを保護しその後8カ月間自宅で飼育していることが鳥獣保護管理法に対する「違法」であるとして、タレントのモト冬樹さんが釈明に追われていた。しかも連日。正直言ってくだらないと思った。こんなことのためにリポーターがわざわざ自宅まで行ってピンポーンとかしてんじゃないよ!と思った。

 

しかし、ちょっと考えてみると、財務省による公文書の改ざんが大きな話題になっているこの時期に、「弱った子スズメの保護」が違法であることを巡ってテレビ局が連日報じることは、「倫理」とか「道徳」という目に見えない規範と、「法律」という目に見える規範の対比としていい事例だなあと感じた。

 

モトさんがスズメのことをブログにあげてしまったことはうかつだった。法律を守らせる立場のひとは、そこで何もアクションを起こさないわけにはいかなくなる。モトさんはいま、東京都から「スズメを放せ」と迫られているらしい。

 

しょうがない。法律は法律だ。指導通りに放せばいい。そして「放しましたよ」と東京都に報告すればいい。その後、モトさんの家から「ちぃ、ちぃ」という鳴き声が聞こえても、モトさんの家の中をスズメらしき生き物が飛んでいても、東京都の職員を含む社会のみんなが「あれはスズメによく似た文鳥だ」とでも思えばいい。「誤解を招く」といけないので、モトさんもその文鳥の写真をブログにあげたりしない。それでおしまい。それくらいの粋な社会であってほしい。

 

「ルールだからダメ」「法律だからダメ」というのは本来思考停止である。ルールや法律にもなぜダメなのか、理由がある。その理由をいちいち説明するのが面倒くさいので、一律にルールや法律として決めてしまったにすぎない。その理由をみんながすぐに納得できるのなら、法律なんていらない。一方で、完璧なルールや法律などありえない。何でもかんでも杓子定規にルールや法律を当てはめればいいってもんじゃない。運用の仕方が大切だ。

 

鳥獣保護管理法は、野生動物の乱獲を防ぐ主旨で定められている(のだと思う)。悪意をもって、あるいは悪意がないように装って、野生動物を捕獲しビジネスにするケースがあれば、迷いなくこの法律を突きつければいい。そのためにこの法律はある。今回のモトさんのケースが認められると乱獲するひとが出てくるかもしれないという声もあるが、それは考えすぎではないかと思う。

 

一方で、公文書の改ざんは、ただちに違法とはいえないらしいが、決して許されることではないという規範意識が私自身の中にある。これについては、あったことをなかったことにはできない。ダブルスタンダードといわれればたしかにそうかもしれない。なのになぜ公文書の改ざんはダメなのか。理屈で言えば、「国」という概念上の人工物そのものがルールや制度によって成立しており、その部品に欠陥があれば「国」自体が簡単に瓦解するからだ。

 

しかしもっと直感的にシンプルに言うこともできる。「それはひととしてやってはいけない卑怯なことだから」。一方、弱った子スズメを保護することは、たしかに違法ではあるけれど、その行為自体はひととしてやってはいけないことではない。

 

社会規範ありきでそのルールに従うことが目的になってしまうと、おかしなことが起こってくる。そこで個別の状況によって判断するその判断能力の源泉が道徳心である。もしくは倫理観といってもいい。

 

ちなみについ最近アメリカでは、航空機の乗客がキャリーケースに入れて連れていた子犬を、客室乗務員が「ルール通り(実際は足下に置くのが正しいルールだった)」頭上のロッカーに収納するように強要したため、フライト中に子犬が死亡したという事件が起きている。

 

線引きは難しい。難しいけれど、人工知能じゃあるまいし……と書きそうになったところでふと考えた。もしかしたら道徳的な線引きも、いまや人間よりも人工知能のほうが賢いかもしれない。そう考えると、当初2045年といわれていたシンギュラリティはもっと早まるかもしれない。人工知能の発達ではなく、人間の考える力の退化によって。

 

2018年度から小学校で「道徳」が教科化される。それもどうかと思うのだが、せっかくならば教科書に「スズメの保護」と「公文書の改ざん」の事例を併記して、ルールとか法律とか倫理観とか道徳心とかについてディスカッションの教材にしても面白いのではないだろうか。

 
※以上、2018年3月15日にJFN「OH! HAPPY MORNING」にてお話しした内容を掲載しています。