「あなたの1票が日本を変える」という限り投票率は下がる

 

 本来、教育の成果が表れるのは数十年後。それなのに、日本では、「今すぐ、効果が得られる」教育が求められ、議論されている。そういう価値観で設計された教育を受ければ、「今すぐ、効果が得られない」ものには価値がないと思いこむ人が育つのは当然だ。

 で、そういう人たちが選挙に臨むとどうなるか。それが先の参院選の投票率の低さに表れていると僕は思う。

 1票を投票しても、「どうせ何も変わらない」=「今すぐ、効果が得られない」。だから、「投票しても意味がない」となる。即効性を求める教育の結果である。

 たしかに何も変わらない。でもそもそも選挙とはそういうものだと思う。選挙のたびに革命が起こるようでは社会はもたない。毎回毎回の選挙で、みんなが気づかないくらいの小さな変化が積み重なって、数十年経ってから見ると、「あら、いつの間にかだいぶ変わったのね」というくらいの時間をかけた変化が、社会の変化の仕方としては望ましいと僕は思う。

 たった1票で社会が動かせるわけではない。

 1回の選挙で社会を変えるのではない。

 選挙は革命ではないのだから。

 「たった1票」がたくさん集まって、ひとつの選挙の結果となる。その選挙を、数十年で何度もくり返すことで、少しずつ社会が変化する。たった1票では何も変わらないけれど、1回の選挙では何も変わらないけれど、ちりが積もって、それが時間の経過とともに発酵して、漸次的な変化につながる。そういう長い時間軸の中で、自分の1票を捉えるべきではないか。「今すぐの効果」は感じられないけれど、無意味ではないと思えるはずだ。

 「あなたの1票が日本を変える」みたいに期待をあおるから、結局「変わんないじゃん」という無力感も大きくなる。「あなた1票が日本を変える」みたいにあおればあおるほど、今後も投票率は下がると僕は思う。

「自分1票では多分何も変わらないけど、いつ芽吹くかわからない種を蒔くつもりで投票しておこう」というくらいの気持ちになれないと、投票率は上がらないだろう。

 そう考えると、投票率は低いのに、選挙のたびに「○○党圧勝」というような極端な勝ち負けがつくことも説明 できる。

 即効性を好む人は、自分が1票を投じた候補が落選すると、「意味がなかった」 と思ってしまう。でも、自分が1票を投じた候補が当選すると、自分の1票に意味があったと感じることができる。だからつい、「勝ち馬に乗る」ような形で、優勢な候補に入れたくなるという心理が働く。で、シーソーゲームのように勝敗 がはっきりするのである。

 これもやはり即効性を求める教育の結果である。

 

民主主義社会が衰退するシナリオと、アラフォー男子のすべきこと

 

 そもそもなぜ選挙 をするのか。

 未来を「よりよい社会」にするために、みんなの意見を集めることだろう。未来における「よりよい社会」とは、今の自分にとっての利益が増えることではない。次世代にとって「よりよい社会」という意味だろう。

 まったく投票しないよりも、どんな1票でも投票した方がいい。でももし「今の自分の利益」を最大化することのみを考えて1票を投じるのであれば、その価値は「今」のものでしかない。未来の「よりよい社会」につながる価値は生み出さないかもしれない。

 同じ1票でも、次世代、次々世代のことまでを考えて投じられた1票と、今の自分の利益だけを考えて投じられた1票では、重みが違う。しかし同じ1票として扱われてしまう現実がある。

 より長期的な広い視野に立って物事を考え判断できる人を育てなければ、長い時間軸で見たときのその社会における「1票の精度」は下がる。それをくり返せばやがて社会は衰退する。教育の「結果」はこうやって数十年後に表れる。

 要するに、目先の利益にとらわれない、本質的な教育をしていかないと、投票率は下がり、かつ、1票の精度も下がり、社会はますます衰退するということ。

 「教育は未来への投資」とかよくいうけれど、それを、優秀な技術者を輩出して日本の産業発展に役立てようとか、グローバル人材を育てて国際競争力を高めようというような、次元の低い意味だけでとらえないでほしい。

 「今の教育の質が、未来の社会全体の質を決める」という、もっと根本的な意味がある。

 本気で世の中をよくしていこうと思うなら、目先の経済成長のことばかりにとらわれないで、教育のこともしっかり語れるアラフォー男子にならなきゃいけない。

 

※『アラフォー男子の憂鬱』(2013年、日本経済新聞出版社)より。