働き方改革法案をめぐる国会議論が迷走している。これまでの流れをおさらいする。「1億総活躍社会」のスローガンのもと、女性がもっと活躍できて、男性も育児や家事をする時間がもてる社会をつくろうというのが「働き方改革」に至る流れ。具体的に何を変えるのかを議論するために実施されたのが「働き方改革実現会議」。

 

この最中、折しも電通社員の過労自死事件が話題となり、残業上限規制を厳格化しようという世論が巻き起こる。残業規制の抜け道となっていたいわゆる「36協定」の抜け道を塞ぐことが議論の的になってしまう。結果、罰則つきの上限規制が設けられることが決まったが、それはあくまでも過労死を防ぐ意味での上限規制であり、女性の活躍や男性の家庭回帰を後押しするような次元ものではなくなってしまった。「ワークライフバランス」とはいうが、「生活」という意味の「ライフ」を守るのではなく、「生きるか死ぬか」という意味での「ライフ」を守る次元の話になってしまった。

 

衆議院選を挟んでまさに今国会で議論されているのが、「働き方改革実現会議」で議論された内容をもとに作成された働き方改革関連法案。しかし、残業の上限規制だけでなく、裁量労働制の拡大や高度プロフェッショナル制度といった、残業という概念自体をなくしてしまう話までがセットで提案された。36協定の抜け道を塞ぐ一方で、別の抜け道をつくるような話である。そこにきて、裁量労働制に関するデータに多数の不備があることが見つかり、議論が空転したというわけだ。

 

経団連の榊原会長は2月26日「今回の法案は、多様化する働き方への対応や長時間労働の是正など時代に即した改正で、社会の要請でもある。ミスと法改正の趣旨は別の問題だ」と述べ、法案の今国会での成立を求めた。であればなおのこと、裁量労働制の拡大については一度法案から取り下げ、「働き方改革実現会議」で決まった残業上限規定だけでも早急に通すのが筋である。

 

政権は「踏み絵」を迫られた。おそらく裁量労働制の拡大だけをあとから通すことは非常に困難で、残業上限規制とセットでないと通せないと考えているからだ。このチャンスを逃したら、次にいつチャンスが巡ってくるかわからない。経済団体からのプレッシャーもあるだろう。裁量労働制の拡大や高度プロフェッショナル制度の実現は経済団体およびそれを支持母体とする自民党の長年の念願であったのだ。結局、2月28日、安倍首相は法案から裁量労働制の拡大を削除するように指示した。これは大いに評価できる決断だ。ただしもう一つの抜け道である高度プロフェッショナル制度については生きている。この是非についても今後十分な議論がされることを望む。

 

データの不備によって法案のほころびが露呈したいまこそ、雇用側の論理ではなく、労働者の権利と生活を守るための「働き方改革」を再起動しなければいけない。それは政府主導ではなく、私たち国民一人一人がまず、どんな働き方、どんな暮らし方をしたいのかを明確にイメージすることから始まる。

 

たとえば共働き家庭の平均的な家事労働時間は6時間弱。それを夫婦で平等に分担するなら、3時間ずつ。夫婦がともに1日3時間の家事労働を担うには、賃労働に1日何時間割けるのか、考えてみるといい。あるいは昭和のころ、各家庭から主に男性が1日9時間の労働力を社会に提供すれば、マイカーが買えて、マイホームが買えて、子供たちを大学まで通わせることができた。その賃金をこれからは夫婦で稼ぐというのなら、夫婦がそれぞれ1日4.5時間ずつ外で働けばいいことになる。だとすれば、たとえば夫婦でそれぞれ1日5時間ずつ外で働き、1日3時間ずつ家事をするというライフスタイルが想起できる。要するに、8時間労働し、それ以外の時間は休息したり、子供と過ごしたり、勉強したり、趣味を楽しんだりできるライフスタイルである。

 

そのようなビジョンがあってはじめてそのために必要な制度や法律についての議論が始められる。そのようなプロセスこそ、本来「働き方改革実現会議」の役割だったのではないだろうか。労働者目線での要求は、もちろん経済団体にとってはマイナス要素を多分に含むだろう。しかし「働き方」を企業の論理ではなく、労働者・生活者のニーズに即したものにすることこそが本当の「働き方改革」ではないか。それをすることによって時代に即した企業に変化を遂げ、新しい社会の秩序ができあがるのではないだろうか。昭和モデルの企業を延命するための「働かせ方改革」はごめんだ。