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育児・教育ジャーナリストおおたとしまさのブログ


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本日新刊『中学受験 注目校の素顔 巣鴨中学校・高等学校』が発売になりました。巣鴨中学校・高等学校は、大塚にある男子校。「硬教育」を掲げ、伝統を重んじる「ザ・男子校」という感じの学校です。でもその厳しさの裏にある男の優しさを描きました。

 

その本の中から、著者として気に入っているところを抜粋しました。立ち読み感覚で読んでみてください。学校の紹介というよりも、もっと深いメッセージ、どきりとするようなメッセージを集めました。

 

 

 同じぼた餅を食べるにしても、文字通り何の努力もせずたまたま棚から出てきたぼた餅を食べるのと、一生懸命努力してやっと手に入れることのできたぼた餅を食べるのとでは、感激がまるで違うであろうことは自明だ。棚ぼた式に得た成功は、恐らくその人を本当の 意味では幸せにしてはくれない。そう考えると、努力とは、人生の喜びを何倍にもする魔法だと言えるかもしれない。

 

 

  中高生にビジネスマンのまねごとをさせることは、促成栽培のビジネスマンを育てているようで、私も感心しない。

 じっくりと時間をかけて、たくさんの日光と雨を浴びて自ら大地の養分を吸収できるようになれば、青々とたくましく育つものを、ビニールハウスに入れて養分を与えてとにかく早く育てようとする。たしかにそれでも育つには育つが、いつまでも肥料を与え、温度管理をしてやらないと枯れてしまう。

 

 「特に今IT関係だったらできるじゃないですか、起業するくらい、子供だって。それがなんだと思うんですよね」

 人間としての本質を育てることが、中高時代の優先順位であって、ビジネスマンのまねごとをさせることが必ずしも優れた教育ではない。それなのに、「社会が変わったから教 育も変わらなければいけない」などといって騒ぐのは、子供たちに対して不誠実だと私も思う。

 

  たしかに世の中のしくみは時代によって変わる。しかしそれは表面的な変化であって、人間の本質は古代からそれほど変わってはいない。だから私たちは万葉集や論語を読んでもその心情や考え方がわかるのだ。それなのに、表面的な社会のしくみの変化にばかり気を取られ、それに振り回された教育を行えば、子供たちの人間としての本質は貧相なままになってしまう。国家レベルでの教育改革がいつも空回りしてしまうのは、そのためだと私は考えている。

 

 

 「この勉強をするとどうなるのか」とか「こういう能力を育てるには何をすればいいのか」とか、教育を直線的因果律で説明しようとする風潮がある。それがはっきりとエビデンスとして示されないとダメだという論調がある。しかし教育は人を育てる営みであって、人の価値はそもそも数値化・可視化できない。エビデンスで示しようがないものを育てようとしているのにエビデンスを求めること自体が原理的に矛盾している。そこに気付かずに、数値化できたこと、可視化できたことだけを根拠に教育を組み立てるから、視野の狭い、バランスの悪い教育になる。その最たるものが偏差値であり、大学合格者数である。

 

 

 中高時代、あるいは大学の教養課程もそうかもしれませんが、勉強とはまさに土に 肥料を入れているだけで、その肥料が直接何かになるかはわかりません。ただ、入れたことによって、いつか芽が出たときに、その芽に一気に栄養がいってバッと伸びる。そういうものだと思います」

 その考え方で言えば、肥料のブレンドは学校ごとに違っていい。そのほうが多種多様な芽が出て、実がなる。しかし現状日本の教育は、どこの学校も同じ肥料を同じ量だけ与えるようにというしくみになっている。その配合が間違っていたら、次世代の苗は全滅だ。

 

 

 「何かをしなければいけないプレッシャーをひしひしと感じながら、でも具体的に何をしていいのかが明確になっていない」というのは、人間にとって最もつらい状態である。

 

 

  常に短期目標が与えられるところだけを見れば、これは「厳しさ」に見える。しかし、全体像を見れば、これは「優しさ」だと言える。むしろ過保護なくらいの「優しさ」だ。

  この「優しさ」を、受験勉強だけでなく、教養を身に付けるための学習や精神鍛錬にまで貫いているのが巣鴨の教育スタイルなのである。

 

 

  地理的な意味で「グローバルな視点」が大切だと言われている。自分の目の前のことだけではなくて、普段は自分の視野には入らない、地球の裏側のことまでを俯瞰する視点が必要だということだ。同様に、時間的な意味での広い視野も大切であるはずだ。長い歴史の文脈の中に、自分が存在する「今」を感じ取る力が必要だ。それがないと、人間は何度でも同じ過ちを犯す。

 

 

 

 昨今の「グローバル人材育成論」が薄っぺらく感じられるのは、文字通り平面的だからだ。時間の関与が薄いからだ。100年先、1000年先を見通すならば、100年前、1000年前のことを学ばなければならない。

 100年、1000年という時の流れの中で、自分もその一部であることに気付くために「伝統」の存在が大きな役割を果たすのだ。形の上で伝統をまねることが大切なのではない。伝統に込められた先人たちの思いに気づき、それが受け継がれてきた文脈に敬意を払うことが大切なのだ。それができて初めて、地理的な視野だけでなくて、時間的な視野が広がる。単なるグローバルではなくて、ユニバーサルな視点が得られるのだ。

 こう考えると、巣鴨が剣道、書道、茶道を積極的に教育に取り入れている理由もわかるのではないだろうか。

 

 

  いったんそのやり方を導入してしまうと、どんどん「ダメなことのリスト」を増やさなければいけなくなる。ルールばかりが増える一方で、子供たちが自分の頭で善悪の判断をする余地が奪われてしまう。

「僕は『卑怯』という言葉を使うのですが、言葉は何でもいい。『これは駄目だよ』っていう基準がね、1個でいいんです」

 たとえば「恥を知れ」という言葉を生徒たちへの戒めとして伝統的に使っている学校がある。同じことだ。何が「卑怯」で何が「恥」なのかは、自分たちで常に考えなければいけない。参照先として、古典があり、歴史があり、伝統がある。

 

 

 「卑怯なことをするな」っていう1つのプログラムだけで、いろんなことを自分で考えて判断できるのが人間なのに、あらゆる状況に合わせたルールをあらかじめ決めるのだとすれば、人間と人工知能の区別はできなくなってしまう。

  人工知能にさまざまな状況に合わせたプログラムをインストールすることと、未知なる状況に自律的に対応できる人間を育てることはまるで違う。しかし前者の発想になってしまうと、子供にインストールしなければならないプログラムは無限になり、教育は崩壊する。

 

 

 「過去の誰か」「未来の誰か」の価値観への敬意がなく、「今の自分」の価値観だけで「合理性」を定義して物事を言い切ってしまうような人は、恐らく文化を紡げない。文化が紡げないということは、人類が進歩しないということ。進歩しないということは何度も同じ過ちを犯すということ。局所的瞬間的な「合理性」は必ずしも「真に合理的」ではない。

 伝統とはただ守られるためにあるのではない。いつの時代の人にもそのことを気付かせるために存在しているのだ。

 
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