石川一郎先生の『2020年からの教師問題』(KKベストセラーズ)。「教師問題」とはいいながら、子を持つ親が読んでも、今、教育がどのように変わろうとしているのかがわかりやすく示されている本です。私の本に出てくるキーワードとも非常に似た言い回しが出てきます。

 

たとえば、「正解のない『問い』」。私は「動的な問い」と呼んでいます。そのような問いに向かい合っているときの感覚を石川先生は「モヤ感」と呼んでいます。私はその感覚を抱き続けることを「問いを問いのまま抱え続ける力」と呼んでいます。これからの教育は「問いを問いのまま抱え続ける力」をいかに養っていくかが大事だろうと私も思っています。

 

そしてたくさんの動的な問いに囲まれている状態こそを「自由」と言うのだろうと私は考えています。常に「お前は何を感じるんだ?」「お前はどう考えるんだ?」「お前はどうしたいんだ?」「お前は何なんだ?」と問われている状態です。「自由」とは無限の動的な問いの集合体なのだと思います。問いを問いのまま抱え続ける力がないと、自由という状態には耐えられないのです。自由な人生を歩めないのです。石川先生風に言えば、「モヤ感」に対する耐性が必要だということです。

 

石川先生は教師こそ「モヤ感」に対する耐性が必要だと訴えています。私の表現を合わせれば、「教師はもっと自由にならなければいけない」という文章が成り立ちます。この場合の「自由」とは決して「お気楽」という意味ではなくなかなか大変なことなんですけれど。

 

「TeachingからLearning」というのも。「教育」という言葉の意味を「(教師が)教えて育てる」ではなくて「(生徒が)教養を自ら育てる」という意味だと定義し直してはどうかと、私は表現しています。

 

しかし実際は、教師の多くが「教師なのに主役感を持ってしまう」のだそうです。この部分の指摘はなかなか痛快です。「『自分が〜させた』と公言する教師は、悪く言うならば、生徒を使って自己実現を図ろうとしているのです。自分自身の達成感のために結果を追求するようになると、生徒が回り道をしたり、失敗したりすることのリスクを回避するため、教師がすべて綿密に計画を立てて、その実行を生徒に強く迫っていくことがあります」。

 

これは親にも当てはまるんじゃないでしょうか。「教師」を「親」に変えてもそのまま文章が成り立ちます。社会活動にも当てはまる気がします。弱者支援といいながら「私が変えました!」みたいに言って自分が主役になっちゃう人いますよね。まあ悪いことしているわけではないですし、ちょっとなら微笑ましいですけど、社会正義がいつのまにかエゴになると、やっかいな問題を生じることもあるから要注意ですね。

 

私の本のサブタイトルに「『あなたのため』は呪いの言葉」というのがあります。「あなたのため」ってわざわざ言うときって、たいてい自分のためなんですよね。本当にあなたのためを思っていたら、わざわざそんなこと言いませんから。

 

フリーランスとして普段1人で取材して、1人で考えて、1人で書いているので、時々不安になるのですけど、こうやって石川先生の言葉の中に自分が普段使っている言葉のエッセンスを確認できると、答え合わせをしているみたいで安心できますね。あっ、「モヤ感」に耐えられず、正解を求めてしまった……。