「未来を良くするためにはどうしたらいいと思う?」という課題に対して、政治家や政党がそれぞれに案を提示して、国民がどれかひとつを選ぶ。それが選挙の基本的構造である。

 「主権者教育(市民教育)」の真髄は、「投票は自己の利益の最大化のためにするものではなく、国民(市民)として、未来の社会への責任を果たすためにするものである」ことを実感を伴って学ばせることに尽きる。

 現在、いわゆる「シルバー民主主義」の弊害が生じるのは、高齢者の人口が多いからではない。「自己の利益の最大化のため」に、「より良い未来のため」の1票を使ってしまう人が多いからだ。主権者教育がされてこなかった証左である。

 学校において主権者教育を実施するためにもっとも効果的なのは、学校そのものを民主主義社会にすることだ。教師が絶対権力者のように振る舞う学校で民主主義のなんたるかを教えることなどできるはずがない。生徒たちにできる限りの自治権を与え、熟議を通して集団としての「納得解」にいたるプロセスを幾度となく経験させるのが理想だ。

 某私学の教諭は言う。「生徒一人ひとり、感じ方も考え方も違う。クラス全員が一致団結するなんてことはそもそもあり得ない。そんな幻想を抱いて道徳教育なんてやったら、それは抑圧でしかない。かといって、多数決で勝ったグループが好き放題やっていいことにもならない。クラス全員が最低限不愉快にならない落としどころをみんなで見つけられるようになることが、まず重要」。

 生徒が教師の言いなりになるのではなく、生徒自らが考え、実行し、結果について責任を負う機会を与える。当然失敗もある。生徒たちは失敗からこそ学ぶ。教師は失敗しないように手を貸すのではなく、生徒が失敗から学ぶのを見守る役に徹しなければならない。そのためには保護者や地域の理解も必要だ。

 昨今は学校を民間企業のようにとらえる風潮もあるが、これは民主主義教育との食い合わせが悪い。

 企業は一般に、民主主義とは真逆の構造になっているからだ。第一に、企業においては利益の最大化という目的が明確だ。しかも企業には、社長という最高権力者がいて、命令系統が明示されており、組織の中での立場には明確な上下関係もある。社長の鶴の一声で会社の方針が変わってしまう。社風に合わないものはやめていく。しかし民主主義社会はそうではない。社会運営の目的そのものが意識化・共有されることはまず少ない。そして多様な価値観をもつ人々が、それぞれに平等な発言力をもち、お互いの意見を尊重し合うことで成り立っている。みんなが好き勝手なことを言うからなかなか決まらない。でも簡単に決めてしまわないことこそが民主主義の優れた点でもある。社会に可塑性・弾力性がもたらされ、ファシズムを阻止するのである。

 民主主義政治のプロセスを民間企業経営のプロセスになぞらえてしまう人が多いこと自体も、主権者教育が行き届いていないことの証左といえる。

 「教育の政治的中立性」についてはそもそもいくら議論してもきりがない。中立性という概念自体が幻想であるからだ。どんなにバランス感覚の良い教師が、公正に教材を選び、多種多様な意見を平等に教えたところで、1つの教室の中で厳密な中立性が保たれることなどない。どんな人間にもその人の視野の限界があり、思考の限界があり、表現の限界がある。それらの限界をもたない神でもない限り、何が中立なのかを言い当てることなどあり得ない。この点に関しては、ありもしない中立性を定義するような学習指導要領や検定教科書ができないことを願うばかりだ。役人が「それは中立ではない」などと断定するような社会は、すでに中立性が保たれていない社会である可能性が高い。

 ただし、「教育の政治的中立性」に近いものを実現する方法がないわけではない。

 一つは「教育の多様性」を担保することだ。各教師が極力中立性に配慮することはもちろんの前提ではあるが、その限界を認めたうえで、多様な教育がなされることを認めることで、結果的に社会全体としてのバランスが保たれる。多様な教育の中で育った人々が集えば、それぞれの価値観を持ち寄り、その間にある枠をお互いに打ち破り、多様な価値観を共有することができる。結果的に価値観のバランスが保たれ、社会全体の選択肢も広がる。

 もう一つは「教師が生徒に教え込む教育スタイル」から「アクティブ・ラーニング」への転換だ。従来の学校教育のスタイルは、教師が正解を知っており、それを生徒に教え込むスタイル。このスタイルにおいては、教師個人の意見すら絶対的な正解と見なされがち。しかし、答えのない問いに対し生徒自らが調べ、考え、表現する「アクティブ・ラーニング」の教育スタイルにおいては、教師はファシリテーターでしかない。教師の意見も教科書の記述も一つの参考情報にすぎない。これであれば相対的に教師の価値観の影響力を減らせる。

 現在多くの学校では、「教育の政治的中立性」に配慮するあまり、現実社会で起こっているリアルな議論についてあえて触れないという本末転倒が起きているようだが、一部の私学においては逆に、現実社会で起きている問題について議論するための特別科目を設定していたりもする。授業の目的は、教師の考えを押し付けることでもなければ結論を出すことでもない。客観的な情報を集め、それぞれの生徒がそれぞれの観点から分析し、意見を共有することが目的だ。

 くり返す。民主主義社会において主権者教育が必要であることは18歳選挙権であろうが20歳選挙権であろうが変わらない。しかしそれをやってこなかった結果が昨今の各種選挙における著しく低い投票率なのである。

 現在の教育改革議論は、産業界のための即戦力育成に優先順位を置いているように見える。しかしもっと重要なのは、民主主義社会の一員としての教育である。その順番を間違えてはいけない。

※週刊「世界と日本」2060号(2015年9月7日号)に寄稿したものに加筆修正して転載しています。