仮に自分が、ナチスが台頭し始める時期のドイツにタイムスリップしたとして、ナチスから経済政策を手伝ってほしいといわれたら、社会保障制度をいっしょに考えてほしいと頼まれたら、自分はナチスに力を貸すだろうか。

頼まれた事柄自体は悪事ではない。しかし大きな間違いに進もうとしている政権を助けることに違いはない。その後の歴史を知る者としては、たとえ部分的には良いことだとしても、その政権に与することはできないだろう。

話を現実に戻す。

目指すべき国のあり方について、大きな隔たりがないのなら、各政党の政策を見比べて、自分がいちばんいいと思うところに票を投じればいい。政策の違いは目指すべき国のあり方を実現するためのアプローチの違いでしかない。

しかし目指すべき国のあり方の方向性が、全然違うのであれば、個別の政策には賛成であっても、その政党に1票を投じることはできない。



以下、2015年7月15日にブログに書いた記事をほぼそのまま再掲する。

経済政策や社会保障制度など、個別の論点はいろいろあるけれど、個別の課題を静止画的に見ていても正しい判断はできない。もっと大きな「文脈」の中で見ないと。彼らが最終的に何を目指しているのかは、ここにはっきり書かれている。


憲法のことも法律のこともまったく詳しくないが、高校生レベルの読解力があれば誰でもわかる。これは「改正」なんてものではまったくなく、全く別物。「憲法」「国家」の概念そのものを変えようとしていることがわかる。この文脈の中では、「9条改定」なんてかわいいもの。もっと怖いと私が思うのは下記の点。



・改正案前文
国民が国家を守るものだと明記して、「国民を守るために国家がある」という前提をあっさりくつがえしている。また、経済活動によって成長させると明記して、経済活性化こそが国家の繁栄であると宣言している。経済合理性がなによりも優先される国家になるということ。まあすでにそうなってはいるけれど。

・改正案99条
内閣総理大臣が緊急事態を宣言すれば、「何人も、・・・国その他の公の機関の指示に従わなければならない」。「お国のためなら犠牲になるように命じることもあるからよろしく」ってことをご丁寧に書いてくれたということ。

・改正案100条
衆参両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で憲法改正への一歩を踏み出すことができるようになる。もちろん国民投票という手順はあるが。現状では3分の2が必要。過半数与党がいつでも憲法改正の国民投票にもちこむことができる。ときの政権が、国のありかたをころころと変えていいようになる。「じゃ、憲法って何のためにあるんだっけ?」という話。

・現行97条
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権力は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」をまるまる削除してしまっている。異様なことだが、改正案前文や改正案99条と合わせて考えれば、この条項が残っていると不都合であることが理解できる。つまり基本的人権の原則よりも、国を守ることのほうが優先順位が高いという全体主義宣言。

・改正案102条
「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」とある。国民が、国家や権力を縛るために存在するはずの憲法。その主体と客体が逆転している。改正案では、憲法は、国家・権力ではなく国民を縛るものになる



改正案が描くのはあからさまな「国家>個人」の国家観。こういう国を目指して進んでいきたいのかどうかという「文脈」の中で、国民は一人ひとりが持っているもろもろの「力」を使わなければいけない。

そもそもこの改正案は2012年につくられて発表され、物議を醸したものだった。この前の選挙でも、その前の選挙でも、この国家観を承認するかどうかというのが大きな「裏テーマ」であったはず。なのにそれを忘れて、目先の「きびだんご(経済政策)」につられて、あるいは前政権への失望感からの反動で、うかつにYESボタンを押してしまった人も多いのではないか。

「憲法9条改正」と「憲法改正」を同次元で語ってはいけない。「9条」を改正すべきかどうかは十分に議論すればいい。しかし「憲法」そのものの意味、すなわち「国家のあり方」を現政権が考えるように変えていいと思っている人はどれほどいるのだろうか。自民党憲法改正草案をろくに読みもせず「憲法改正議論」を「9条改正議論」に矮小化してとらえ、票を投じてしまう人がいるとしたら怖い。