昔から教育雑誌などでは「東大生が育った家庭」とか「子供を名門○○中学に入れた親の育て方」のような特集が人気だった。最近はその手の書籍が多数出版されている。こうなると雑誌の企画にあくまでも素人の体験談として登場するのとはわけが違う。優秀な子供の親が1冊の本を出すとなると、もはや「プロ親」と呼んだほうがいい。今や書店の受験コーナーを「プロ親本」が占拠するまでになっている。出版社からも「無名でいいので、強烈な教育をしている親っていませんかね?」と尋ねられる始末である。

 今、なぜプロ親が人気なのか。その前提には「受験は親が9割」的な言説の流行があると私は考えている。数年前から、「子供の学力は親次第で伸ばせる」というような本が流行っていた。それは言わずもがな正しい。家庭の文化資本が子供の学力に大きな影響を与えていることを示すエビデンスは、教育社会学の過去の調査から多数得られている。

 プロの塾講師や家庭教師が、親のあるべき姿を書いた本はもともと多い。書いてあることはもっともだが、私はそれらがあまりに流行することに一抹の不安を感じていた。「子供のできは親次第」という社会的通念が強まれば、親同士の競争が激化することは容易に予測できた。親同士が、「成果物」としての子供の偏差値を競い合うようになるのだ。その構造は、たとえは悪いが、闘犬や闘鶏を連想させる。少なくとも子供本位の教育からはかけ離れていく。それが心配だった。優秀な子供を育てる優秀な親のロールモデルとして、プロ親が出現したのは当然の流れだった。

 年齢を重ねてもストイックに体を鍛えている人がいる。それがあるべき姿だとわかっていても、誰もがまねできるわけではない。同様に、教育者として優秀な親にストイックに徹することができる親もいる。しかし誰もがまねをできるわけでもない。プロ親の本を読んで「ここまでは自分には無理だ」と感じた親も、今、世の中にはたくさんいるはずである。親の教育者としての能力の高さに、単純に子供の学力が連動してしまうのであれば、随分と夢のない世の中だと感じられる。

 それにあらがうために塾のような教育機関があるのではないだろうか。「プロ親はたしかにすごい。まねしようとしてもなかなかできない。でも、うちに来てくれれば、大丈夫。私たちが付いていますから」と言ってあげられる塾が、今求められているのではないだろうか。

 とはいえ今後は、タイプの違う多数のプロ親が出現し、「結局みんなやり方が違うじゃん! どれをまねしたらいいのかわからない!」という結論になり、数年のうちにプロ親ブームは終焉を迎えると私は予測しているのだが。

※月刊「塾と教育」連載の6月号記事を転載してします。