消費税増税の延期を発表する首相会見で耳を疑った。正確には覚えていないが、「一億総活躍社会は、欧米のような一部の人に富が偏る社会ではなく、全員にチャンスがある社会だ」みたいな台詞。

「ニッポン一億総活躍プラン」の目玉は、「同一労働同一賃金」「長時間労働の是正」など、要するに欧米型の働き方への社会的変換ではなかったのか。「欧米型社会を目指し、欧米とは違う社会を築く」とはまるで「なぞなぞ」だ。

5月18日、政府は「ニッポン一億総活躍プラン」を発表した。

自民党改正憲法草案に通底する超保守的な国家観・家族観の「土台」の上に、今の社会にストレスを感じている人たちすなわち非保守層にとって都合良く聞こえる打ち手が、表面的に「載せられた」構造になっている。

「これで保守派も非保守派もとりこめる。ガハハ」というつもりなのか。個別の施策に賛同する人たちの声を集めて、「ほら、一億総活躍プランに賛成したでしょ」と言って「憲法全差し替え」に突き進むつもりなのか。アベノミクスによる一時的な株高や消費増税の先送りをエサにして選挙に勝ち、安保法制を通してしまったのと同じように。

「3年間のアベノミクスは、大きな成果を生み出した」で始まるこの文書には、政権の国家観が如実に表れている。

経済が良かろうが悪かろうが、国民の生活を保障するするのが国家の役割ではないかと思うのだが、この文書からはもちろんそのような国家観は感じられない。

代わりに「日本が、少子高齢化に死にものぐるいで取り組んでいかない限り、日本への持続的な投資は期待できない」「広い意味での経済政策として、子育て支援や社会保障の基盤を強化」「(経済)成長という手段を使って、国民みんながそれぞれの人生を豊かにしていくことを目指していく」などという表現が続く。

国家ではなく株式会社の声明のようである。

このような国家では、増収増益に結びつかない政策は優先順位が低くなる。子育て支援でも社会保障でも、それによって得られる経済的メリットを予言できなければ実行されない。損得勘定なく弱者に手をさしのべる政策は疎まれる。経済的な意味で生産力の低い国民の居場所はますますなくなる。

そのような社会の行く末は、「包摂と多様性」とは真逆の社会ではないだろうか。

日本はすでに成長社会ではなくて成熟社会なのだから、社会構造や価値観の変革をもたらそうという話をしているのに、その根本理念は「経済成長がすべての前提」という昭和的価値観なのだ。

これでは国民が、「家族のために」と念じながら、結局仕事優先の昭和的ライフスタイルを選択し続けるのも道理である。

旧態依然とした価値観に根ざしながら、表面だけ社会を変えようと言う。「一億総活躍プラン」に込められた、このダブルバインドのメッセージを、私たち国民はどう受け止めればいいのだろう。まさに「なぞなぞ」だ。

「同一労働同一賃金」「長時間労働の是正」など個別の方向性としては賛同できる施策もあるが、それとて根本の理念が違えば、いわゆるリベラルが望むような形で作用するとは限らない。

経済合理性だけのためにこれらの施策が実行されれば、賃金水準は下がり、失業率は上がることは容易に想像できる。特に若者の賃金低下、失業率低下は免れない。それではますます結婚できない若者が増える可能性だってある。

教育の無償化などの抜本的な社会保障の拡充と合わせて実行されなければ、「少子化対策」とは名ばかりで、「国内総生産拡大」のための単なる「国民総労働時間拡大」策になってしまう。現政権にそこまでやるつもりが本当にあるのだろうか。

保守的な政権がリベラルな意見を取り入れたことは確かに大きな一歩である。しかしこれが単なる選挙のための「絵に描いた餅」であっては困る。

タレントの菊池桃子さんはじめ、会議のメンバーは本気で国のためを思って提言をしたはずだ。それが政権に利用され、広告塔にされた挙げ句、国民みんなが「だまされた!」というのはあってはならない。「約束と異なる新しい判断」なる難解な日本語を流行語大賞にしてはいけない。

伊勢志摩サミットにおいて、世界経済が決して良い状態ではないという認識はどの国の首脳ももっていたはず。しかし彼らは、「世界経済の危機」を訴える日本の首相の「論理のすり替え」にうかつに乗ることはなかった。同様の慧眼を、日本の国民も発揮しなければいけない。