「社会問題を解決するために声を上げていこう」という理屈がある。たしかに声を上げなければ誰も気づいてくれない。ネットの普及によってこのような声を発信しやすくもなっている。しかしどこかに越えてはならない一線がある気がする。

外交問題から憲法問題、貧困問題、動物愛護問題まで、世の中にはさまざまな次元の問題が存在する。声を発することすら難しい弱者支援の文脈においては、誰かがその声を代弁することが必要になる。問題意識を持つ者が大声を張り上げて注目を集めようとするのは自然なことだ。ただし炎上商法と思えるほどにやり過ぎると、支援を呼び込むための「呼び込み合戦」になってしまう。それでは社会貢献や弱者支援の中に「目立ったもの勝ち」という理屈を持ち込みかねない。元の木阿弥だ。ましてや弱者が弱者であることを認知してもらうために、代弁者が「ほら、この人たち、こんなにかわいそうなんですよ、こんなにみじめなんですよ」と必要以上にアピールにすることは、被支援者そのものの尊厳を貶めることにもなりかねない。

世の中に無数に存在する社会貢献活動は、それぞれ一つずつを取り出してそれだけを見れば、どれもほぼ100%「正しい」。しかし世の中には同類の問題が無数に存在する。それらをすべて俎上に挙げて優先順位をつけながら、限りあるリソースを活用するのが本当の「社会正義」であるはずだ。弱者同士で大声を張り上げて声が大きい方が勝つという弱肉強食の理論を社会貢献の文脈に持ち込むのは大いなる矛盾だ。行きすぎれば「支援が受けられないのは声が小さいからだ」という自己責任論すら成立させてしまう。そうなると今度は、プロの社会貢献活動屋が跋扈し始めるかもしれない。弱者は彼らにすがる。彼らはまるで正義の味方のように振る舞う。彼らはたとえばNPOのような体を装うかもしれないが、その内実は広告代理店かコンサルティング会社のようになるだろう。

弱者支援を行うのなら、社会全体としては、基本的には「耳を澄ます」方向を目指さなければいけない。今まで問題に気づかなかった人たちが、ふと立ち止まって耳を傾けるように仕向けなければいけない。ときには弱者同士で譲り合わなければいけない。そのために必要なのは、「煽る」ことではなく、「静かに訴えかけ続ける」ことであるはずだ。長い目で見れば、そのほうが社会のためだろう。

そうはいっても、やはり大声を出すことも時には必要なのかもしれない。そこはバランスだ。そのバランス感覚こそが「品」なのだと思う。