私はときどき書店の絵本コーナーをうろつく。すてきな絵本との出会いを求めて。そしてまた出会った。魂を振るわす絵本に。『木を植えた男』。私が今まで知らなかっただけで、きっと名作なのだと思う。
 荒れ果てて、人々がいがみ合って暮らしている土地があった。その外れで、家族を亡くした1人の老人が、毎日100粒のドングリを植える生活を送っている。数十年の時を超えて、荒野は豊かな森となった。小川のせせらぎ、人々の笑い声がよみがえった。でも、それがたった1人の老人の不屈の精神によって成し遂げられたことであることを誰も知らない・・・・・・。そんな話だ。
 引用する。

ところで、たった一人の男が、
その肉体と精神をぎりぎりに切りつめ、
荒れはてた地を、
幸いの地としてよみがえられたことを思うとき、
わたしはやはり、
人間のすばらしさをたたえずにはいられない。
魂の偉大さのかげにひそむ、不屈の精神。心の寛大さのかげにひそむ、たゆまない熱情。
それらがあって、はじめて、すばらしい結果がもたらされる。
この、神の行いにもひとしい創造をなしとげた名もない老いた農夫に、
わたしは、かぎりない敬意を抱かずにはいられない。

 その偉業を知られることなく、彼は生涯を終える。お金もなければ名誉もない。でも、誇りは胸一杯あったと思う。高潔なる人生とはこういうことだと思う。
 閉塞感に満ちた社会においてはとかく、一打逆転のホームランを狙って大振りをする人たちが登場する。彼らはヒーローになろうとして、「待ったなし!」とか「スクラップ&ビルド」などと声高に叫ぶ。
 そんなの嘘だ。
 本当に世の中を変えられるのは、地道な、他人の目には見えない内面的な努力を、ずーっと積み重ねてきた名もない人たち。今の世の中に必要なのは、大なたを振るうド派手なパフォーマンスではなく、地道な苦難の道を一歩一歩歩もうとする覚悟だと思う。
 このことは教育にも通じる。
 高潔な魂を持つ名もなき教師が、高潔な魂を持つ名もなき人物を育てる。そして社会は良い方向へとじわりじわりと変わっていく。その成果が出るのは、百年後、千年後かもしれない。それでもじわりじわりと伝えていくしかない。そして、その成果が出たとき、その成果が何によってもたらされたのかを知る人は誰もいない。自然にそうなったのだと誰もが思う。それが、教育の力。
 名声を求めるなら教育に携わらないほうがいい。本当に価値ある教育の成果は、生きている間には表れたりしないから。成果が表れたって、それが誰のおかげだなんて、誰も気にしないから。それでもいいという人のみが教育に関わればいい。「あれも、これも、俺が仕掛けたんだ!」って生きている間に自慢したい人は、教育改革などに関わらないでほしい。優先順位が狂うから。
 教育には時間がかかるのだ。2年とか3年とかではなく、100年とか200年という単位で。
 しかし今、教師たちは目先の雑務に追われ、疲弊しているという。
 全日本教職員組合が2013年10月に発表した調査結果によれば、小中高の教員の残業時間は月平均約95時間30分。10年間で約10時間増えた。うち、小学校の教員の残業時間平均は月94時間21分(自宅持ち帰り分を含む)。月100時間以上残業している教員の割合は34%だった。
 厚生労働省「毎月勤労統計調査」の2013年度集計では、従業員5人以上の事業所の月間「所定外労働時間」すなわち残業時間は平均で、10・3時間、従業員30人以上では同様に12・1時間。教師が世の中の平均に比べていかに残業が多い職業かがわかる。
 しかも、残業時間に応じた残業代は出ない。教員の給与には、「教職調整額」として給料月額の4%があらかじめ一律に上乗せされているが、これが実質的な「見込み残業代」にあたり、いくら残業をしてもそれ以上はもらえないのだ。
 子供たちは午後3時すぎには下校しているはず。何でそんなに残業が多いのか。
 OECD(経済協力開発機構)が2011年に発表した資料に興味深いデータがある。日本の小学校教師は、OECD平均に比べて労働時間が約14%長い。実際の授業時間はOECD平均より少ないのに、である。なぜか。日本の小学校においては、教師の総労働時間に占める授業時間の割合が低いのだ。つまり日本の教師は授業以外のことに時間をとられている割合が高いということ。
 授業時間以外の業務とは何か。授業の準備やテストの採点などは容易に想像がつく。職員会議というのもあるだろう。それだけではない。学校には「校務分掌」という言葉のもと、さまざまな業務分担がある。一般企業にたとえるなら、営業マンでありながら、商品の研究・開発から製作、在庫管理、経理、庶務、広報まで、すべて自分たちで手分けして行わなければならないような状態なのである。
 しかしこのような校務分掌は昔からあった。私立の学校でも基本的なしくみは同じ。多かれ少なかれ海外にもあるだろう。それでは「昨今、教員の負担が増加している」ということの説明にはならない。そこで、現役の公立小学校校長に話を聞いた。
 「私が若いころも教師はみんな残業をしていた。私もよく夜中まで職員室に残っていた。9時、10時は当たり前。しかしそれは自分で望んでやっていたこと。翌日の授業に使う教材に一工夫を加えたり、子供たちのためにやっていたこと。しかし今、教員たちが残業してまでやっている仕事の多くは、直接授業や子供たちのためになることばかりではない。多くは組織運営上の業務である」
 たとえば東京都では、2000年4月から人事考課制度が導入された。概要は次のようなものだ。
 まず、年度の初め、一人ひとりの教員が、学校の課題、校長が示す学校経営方針を踏まえたうえで、自分の目標を設定する。そしてその目標の達成に取り組む。校長・副校長は、授業の観察や教員自身による自己評価、面接などに基づき、教員に対して公正な業績評価を行い、次年度に向けての指導や助言をする。評価は5段階。昇級などに反映される。
 評価に際しては校長・副校長だけでなく、主幹や学年主任の声も重要になる。基本的には一般企業の人事考課制度と似たようなもので、一般の保護者には違和感のないものだろう。
 これと同様のことを、教育委員会事務局のスタッフも行う。彼らが年度初めに立てる目標は、たとえば「迅速ないじめ対応ネットワークをつくる」というようなものになったりする。それを評価するためには、各学校でのいじめ対応への取り組み実態を調査しなければならなくなる。教育委員会から各学校へ調査票が送られ、教員はそれに答えなければならない。調査票に答えるための調査も必要になる。
 ひとつやふたつならかまわない。でもそれがいくつもやってくるというのだ。
 教育委員会職員の査定のために、子供たちのために使うべき教師の業務時間が奪われているのである。
 成績をつけることも、昔に比べると大変な作業になった。2002年から、公立の小中学校での成績評価のロジック自体が大きく変換されたことを知っている人もいるかもしれない。いわゆる「相対評価」から「絶対評価」に変わったのだ。クラスの中での順位に関係なく、各教科の観点別に、学習指導要領で定められた目標に対する到達度によって成績がつけられることになった。それが「目標に準拠した評価」である。成績をつける際に、高い客観性が求められるようになったのだ。
 「かつてはテストの成績で上から順番に並べて、ここまではA、ここまでがBなどと成績を決めることができた。また、教師の頭の中にある情報をもとに、ある程度主観的に成績をつけることもあった。しかし評価のしくみが変わってからは、それではいけないということになった」と前出の校長。
 どのレベルに達していればどの成績になるのかという目安は国立教育政策研究所のホームページに公開されている。同じ学習到達度なら、全国一律で同じ成績がつくというのがタテマエだ。教師は年間指導計画及び年間評価計画を事前に設定し、保護者会などで評価基準を事前に説明することになっている。児童や保護者から要望があれば、評価の根拠について客観的な資料すなわち「証拠」を示さなければならない決まりもある。
 今の子供たちがもらってきている成績表は、親世代がもらってきた成績表と見た目はそれほど変わりがない。各教科が観点別に4~5項目に分かれて、それぞれ3段階で評価されている。しかし、その3段階評価をつける基準が、私たち親世代のころと比べるとまったく変わっているのだ。児童一人ひとりのそれぞれの評価について、いちいち証拠を残しておかなければいけなくなったのだ。
 教師が児童の評価に関する情報を書き込む手帳のことを昔は「閻魔帳」などと呼んだが、現代の閻魔帳はとても複雑になっているのだ。
 これについては現場の教師たちの負担感は計り知れないものがある。かつて教育雑誌で「内申書の真実」という記事を書いたことがあり、そのときに実際に複数の公立中学校教師に取材をした。ほとんどの教師が成績をつけることに多大な負担感を感じていた。

 子供や親にとってはものすごく大切な成績だから、「エイヤー!」でつけられてしまうのも困りものではあるが、成績付けによって教師の負担が増え、結局子供たちにしわよせがいくというのであれば本末転倒である。
 というわけで、職員室はどんどん書類主義になっていっているのだ。「処理しなければならない書類が多すぎて困る」というのが公立学校の教師の素直な声なのだ。
 そんな状況での、「大量退職・大量採用に伴うOJT」。
 東京都の教師の年齢構成比では、アラフォーの教師数が少なく、アラサーと50代以上の教師数が多い。
 特に東京都や大阪府などの大都市圏で、団塊世代の教師たちが定年を迎え一斉にやめることで教師不足に陥ると騒がれたのが2007年。俗に「2007年問題」などと言われた。教師不足を防ぐために、新卒の教師を大量に採用するようになったのだ。特にこの数年は小中高を合わせると、東京都だけで毎年3000人以上の採用になっている。
 ベテランが一気に抜ける一方で、大学を卒業したばかりの教師たちが毎年大量に学校にやってくる。「彼らを早く一人前の教師に育てるのがベテランの役割。今のベテランの先生たちは児童だけでなく、後輩も育てなければいけない」と前出の校長。
 子供や保護者から見れば、新人だろうがベテランだろうが先生は先生。新人教師から見れば「いきなりベテランと同じクオリティーを求められるのはつらい」という本音もあるだろうし、ベテランからしてみれば「そう簡単に自分と同じレベルになれると思ってもらっては困る」という気持ちもあるだろう。
 実際、大学を卒業したばかりの新人教師と50代のベテラン教師の間に世代の壁ができてしまうこともあると、多くの教師が指摘する。一般企業であれば、新人と部長クラスが席を並べるようなもの。仕方がないだろう。アラサーの小学校教師は、「どうしても若手とベテランでそれぞれ固まってしまう」と証言する。アラフォーの高校教師は、「アラフォー世代がその橋渡しをしてあげないと職場が成り立たない」と嘆く。
 前出の校長は、20年以上前、自分が新人だったころ、子供たちを喜ばせたい一心で、毎日夜中まで自分の意思で残業していたことを思い出すとノスタルジーを感じると言う。そして、最近の大量採用世代の教員について語りはじめた。
 「私たちが教師になったころより、優秀な新人が多い。みんなまじめでよく勉強している。ただ、優秀すぎて、できない子の気持ちがわからないこともあるように感じる。また、普段の会話の中で提案型のコメントが少ないのが気になる。常にしなければいけないこと、すべきことに追われてしまっている感じがする。自分が若かったころは子供たちのことだけを見て、好き勝手言うことができた。でも今はそれが許されない雰囲気がどこの学校の職員室にもある。それが気の毒。多忙でもやりがいを感じられれば人はがんばれる。しかし、今の教師たちは、教育委員会からも、保護者からも、世の中からも、常に監視・評価の目に晒されているし、個性を認められない。それではやりがいを感じることがますます難しくなる。増大する業務をすぐになくすことは残念ながらできない。若い教師たちにやりがいを感じさせ、少しでも多忙感を軽減してやりたいというのが、管理職としての今の課題」
 「第5回学習指導基本調査」には、「教員の悩み」が挙げられている。1位は「教材準備の時間が十分にとれない」で91・3%。2位は「作成しなければならない事務書類が多い」で84・2%。
 また、「今の新人は優秀」。このことは別の校長経験者たちも口をそろえる。校長経験者で60代元教師の男性は現在、教育指導調査員をしている。各学校の現場に足を運んでは、現役教師を指導する立場にある。
 「私たちのころは、みんな荒削りでいきなり教壇に立って、個性を前面に押し出して、我流でスタイルをつくっていた。今の新人は昔より明らかに優れている。指導方法も勉強しているし、子供の扱いも上手。器用な新人が多い印象だ。反面、ガッツのようなものが希薄な気はする。繊細で線が細いという感じ。ちょっとの壁で挫折しやすい。育ちが良すぎるというか、きちきちっと教育されてきたんだろうなというか。だから、理想に燃えて学校に入っても、目の前の現実を見てすぐに心が折れてしまう。すぐにやめてしまう人も多い。それに、昔に比べると今の教師は規則でがんじがらめで気の毒だ」ともらす。
 多忙感のみならず、規則でがんじがらめにされ、「あれをやってみたい」という発想が生まれる余地がなかなかないというのだ。先生がそれでは、子供たちの創造力を刺激することは難しいだろう。
 教師の誇りを奪うものは、文部科学省や教育委員会ばかりではない。いや、それ以上に教師の自信を揺るがすのは、保護者だと言っていい。教師をバカにする親が増えているようなのだ。
 「昔の教師はもっと好き勝手にやっていた。保護者も、先生というだけで、ベテランだろうが若かろうが、贔屓にしてくれた」と前出の校長。
 どうして教師の権威は失墜したのか。理由はいろいろ考えられるが、私が重要だと思うものを二つ挙げたいと思う。
 一つは、親のレベルアップ。高校進学率が9割を超えたのは1970年代のこと。日本人の標準的学歴のレベルが向上したのだ。昔は教師になるような人は、村の中でも特に優秀で、村の代表として都会の大学まで通い、見聞を広め、地元に凱旋したものだ。今で言えば、海外の大学に行ってMBAを取得してきたみたいに思われていたわけである。
 しかし現在、大卒で教師になった若者よりも、保護者のほうが学歴があったり、よほど世の中について知っていたりということが多くなった。知識も経験も保護者のほうが豊富だったりする。「一般企業に就職してもまれたこともないのに、どうやってそういう社会に飛び出していかなければいけない子供たちを教育できるのか」という思いが、保護者の胸の内にはある。そんな状況で、教師に対する尊敬は抱かれにくくなった。
 次に、保護者の側に「お客様」意識が強まっていることを挙げたい。学校を、サービス業だと思っているかのような保護者の意識だ。
 学校とは、子供に、社会の一員として生活していくのに困らない最低限の知識と技能を授ける場所であり、個々の子供の才能を少しでも伸ばす場所であるはず。成果が表れるまでには時間がかかる。「ああ、あのとき勉強しておいて良かったなぁ」と思えるようになるのは、大抵大人になってから。学ぶべきことを一通り学んで、世の中の全体像がおぼろげながら見えてきたときに、はじめて自分が学んだことの意味を理解するのである。
 何が芽吹くかわからない種を蒔まいて、毎日せっせと水をやり、ときどき肥料を加えたりしながら、「桃栗三年柿八年」と唱え続ける。やっと花が咲いたと思ったら、実ったのは桃でも栗でも柿でもなく、リンゴだったなんてことがある。それが教育であり、勉強であるはずだ。
 しかしビジネスの世界におけるサービス業というのは、お金を払えば即座にほしかったものが手に入るというようなもの。「桃栗三年柿八年」ではなくて、八百屋さんで「栗をくれ」と言って500円を支払ったら、ビニール袋につめられた栗がすぐに手に入るというようなこと。
 保護者の側に「お客様」意識が強まったのは、先ほど述べたような「教育現場における社会的常識の欠如」への反動から、「教育の世界にもビジネスマインドを」という意識が強まりすぎた結果ではないかと私は考えている。「あなたたちの給料は私たちの税金から支払われているのだから、しっかりうちの子の教師をしていただかないともとがとれない」というような考え方が広まってしまっているように感じられる。
 『バカ親、バカ教師にもほどがある』(藤原和博・川端裕人著、PHP新書)には、お客様意識丸出しの保護者の事例がいくつも挙げられている。マッサージ屋さんで担当をチェンジするように「あの担任ではダメだから、担任を変えてくれ」と要求してみたり、ホテルに泊まっているかのように、「うちの子は朝、起きられないからモーニングコールをしてほしい」と要求してみたり、めちゃくちゃなことを言う保護者がいるというのだ。そして思い通りにならないと、「教育委員会に言いつけるぞ」と。
 親がそのような態度であれば、子供たちも教師をなめるようになる。『教師格差』(尾木直樹著、角川Oneテーマ21)の中では、子供たちが担任に向かって「殴ればクビになるんだから、殴れないだろう」と挑発することもあると書かれている。
 つまり、自分たちは教育というサービスを受けるお客様であり、お客様は神様であるから、サービス提供者である教師は、子供や保護者の無理難題にも誠意をもって応えるべきであるという風潮がはびこってしまっているのだ。
 これは極めて重篤な社会的病の一種だと私は思う。
 結論から言う。学校教育は、サービス業ではない。親が子を育てることが、サービス業でないのと同じだ。学校教育とは、社会という共同体の中で次世代を育てる自然の営みである。共同体の中で、自分だけが少しでも得をしようなどと考えたところで、共同体の中の限られたリソース(資源)をお互いに奪い合うことになるだけで、結局誰も得をしない。
 ビジネス的な観点で見てもこれは言える。「栗をくれ」と言って500円を支払って手に入れた栗をおいしく食べた後で、一つだけ虫に食われた栗を見つけて、それを持って「金を返せ」と言って、500円を返してもらおうなどという、せこいことばかりしていると、八百屋さんは栗の値段を上げなければいけなくなる。もしくは栗を取り扱わなくなってしまう。最悪の場合、八百屋さんは倒産してしまう。そんなことをして、結局損するのは消費者なのだ。
 しかしそんなことお構いなしに要求を強めてくるのがいわゆるモンスターペアレントである。
 適切な学校運営のために、改善を要求すること自体は、間違った行為ではない。でもそれが、自己満足だけのための要求であれば話は別。みんなが好き勝手なことを求めたら、収拾がつかなくなるのは誰だってわかるだろう。しかし、今、学校の現場は、そういう状態に近くなっているのだ。
 サービスを受ける側の消費者的な立場から考えれば、サービス提供者に落ち度があれば、それだけビジネスという対価交換行為において、有利に立つことができる。「同じ料金でもよそではもっとサービスしてくれた」と言えば、さらにいい条件を引き出すことができるかもしれない。500円で栗を買うような一般的な経済活動においてはそれも正当な交渉だ。アジアを旅すると、「日本人は値切るのが下手」とバカにされることも多い。
 でも、教育の場において消費者の側がそれをしはじめるとどうなるか。サービス提供者も見えないところで手を抜くということをせざるを得なくなる。山盛りにもられた栗の下を覗くと、実はかさ上げされていたなんてことになりかねない。
 実際は、そんなことにはならない。結局教師たちの負荷だけが増えるのだ。教師たちは、給料に不満はあったにしても、児童に対するときは損得勘定抜きで仕事をしている。そうでなければとてもできない仕事である。損得勘定を考えているのであれば、とっくにもっと割のいい仕事に転職しているはずである。
 教師たちが損得勘定抜きで子供たちに接してくれているのに、保護者は「お客様」意識を振りかざすというのではアンフェアと言わざるを得ない。教師たちの忸怩たる思いを想像するだけでこちらまでつらくなる。
 それどころか、日本の財政悪化を受け、2008年度から2011年度にかけて教員の給与は段階的に下げられており、しかも、財政制度等審議会においては教員給与を年額10万円引き下げて、一般の公務員と同じ水準にすべきだという話まで飛び出している。
 一般企業では、どんなに忙しくても、利益が上がらなければ給与が下がるというのは当たり前。しかし、次世代を教育する教師が、そのときの国の財政状況によって給与をカットされるというのはいかがなものか。なんでも一般企業の理屈を導入すればいいというものではないだろう。
 繰り返す。教師の負担が増し、モチベーションが下がれば、しわよせはすべて子供たちにいく。社会全体が、教師を媒介して、子供たちにしわよせをもたらすことになる。
 たとえばマッサージ屋さんに行って、1時間分5000円の料金を払ったとする。それで1時間のマッサージを受ける権利が発生する。どうせ同じ5000円を払うなら、できるだけ上手な人に施術してもらったほうがいい。「担任を変えろ!」だの無茶を言う人の心理はそれに近いのだろう。
 また、マッサージというサービスを受けて、利益を得るのは消費者本人であって他の誰でもない。しかし、教育の場合、サービスによって利益を受け取るのは実は子供本人ではない。もちろん保護者でもない。子供がいずれ大人になって活躍する社会全体が利益を得るのだ。子供たち一人ひとりがそれぞれの才能を伸ばし、社会に羽ばたいていくことで、社会全体がパワーアップし、豊かになっていくのだ。そのために行われるのが、社会による教育、つまり学校教育なのである。
 教育とは、一見極めて私的に見えて、実はこの上なく公的な営みである。
 これは私だけが主張していることではない。多くの教育実践者、教育学者、教育評論家が口をそろえていることである。
 それなのに、現時点での経済合理性にのみ照らし合わせて、むやみに競争原理を取り入れてみたり、人事考課制度を取り入れてみたりすることは、学校を舞台に「会社ごっこ」をしているようにしか私には見えない。
 そして、その「会社ごっこ」の副産物として、保護者や児童の「お客様」意識の昂揚があり、それが学校現場を歪ゆがめているように思えてならない。
 通常のサービス業であれば、お客さんの態度があまりに悪ければ、最悪の場合、「よそへ行ってくれ!」と追い返すことができる。しかし学校の教師、特に義務教育の公立の学校の教師たちに、それを言うことは許されない。そのことがなおさら教師たちを追いつめる。
 モンスターペアレント対策として、教師が自腹で加入する保険もある。学校ではなく、教師が個人として訴えられたときの訴訟費用などを保障するのだ。
 さらには、学校を舞台にしたトラブル対応の代行業者というのもある。学校で発生する危機管理問題を少なくし、危機発生後のダメージを最小限に抑える支援をするというサービスだ。
 学校や教師たちも、びくびくしながら毎日を過ごしているのである。
 私は私立の中学校や高校を取材することが多い。公立の学校とのいちばんの違いは、現場の教師たちが裁量と誇りをもって、自分の信じる教育を行っていることだ。私立の学校の場合、校長が社長のような存在にあたる。教育委員会を本社として、教育長を社長とする、公立の学校システムが大企業スタイルであるとするならば、私立の学校は中小企業そのものである。だからこまわりがきくし、やりがいも感じやすい。
 私は中学受験に関することをよく執筆するので、「やっぱり公立より私立の方がいいんでしょうか?」と聞かれることがよくある。私は「そうは限らない」と答える。しかし一つだけ付け足す。「現在の公立学校を管轄する教育行政は、現場の教師から個性や裁量を奪う方向に向かっている。構造上、教師たちをますます管理していこうとしている。教師たちが完全に被管理者になってしまったら、『主体性を大事に、自分の頭で考えて行動しろ』と、誰が子供たちに教えることができるのか。そのような教育環境の中からリーダーシップなど育つわけがない。私はそこに今後の公教育の危うさを感じる」。これを言うときには、知り合いの公立の先生たちの顔が浮かび、ちょっぴり心が痛む。彼らは精一杯やっているのだ。主体的に教育に取り組んでいるのだ。でも向かい風が強すぎて、本来の持ち味を出し切れず、もどかしい思いをしていることも事実なのである。
 ルールや制度でがんじがらめにして、教師を被管理者という立場に押し込める。それこそが現在学校という教育現場に問題が山積していってしまう一つの大きな原因ではないかと私は思う。
 一般企業に雇われているサラリーマンはいわば「被管理者」といえる。その態度が行きすぎると「社畜」と呼ばれる。公立の学校の教師も「公務員」という意味では「被管理者」ではある。
 公務員として行政や役所の判断に従うべきところは必要だと思う。しかしそういう部分は最低限にしてほしい。教師は、教室の中では、子供たちのロールモデルでなければならないという意味で、単なる「被管理者」でいてはいけないのだ。サラリーマン的な発想で、もしくはお役人的な発想で、教師を「社畜」的にしてしまうことは、子供たちに「社畜根性」を植え付けることになりかねない。
 教師バッシングの風潮も、保護者や子供たちを勢いづける。学校現場でトラブルが起これば、教師や学校は徹底的に叩かれる。もちろん体罰教師やセクハラ教師などは断罪されるべき。それを放置した学校側の責任も追及されて当然。そこから導かれる思考として、「ちゃんと仕事をしない教師が多いのだから、教師たちをルールで縛り、制度で監視するのは当然だ」というものもあるだろう。
 しかし、ごく一部のそのような教師や学校があるために、日本中の教師や学校が、常に世の中からの厳しい目におびえていなければならないというのは、結局子供のためにならない。教師たちがびくびくしているような教室で、どうやってのびのびとした子供たちを育てるというのか。
 ごく一部の問題教師を学校現場から排除するための方法と、教師全員に圧力をかけることとは区別すべき事柄である。ごく一部の問題教師のせいで、全国の教師全員がさらに枠の中に押し込められてしまうとしたら、それこそ問題教師に全国民が「してやられてしまった」ことになる。
 また、何をルールにして、何をルールにしないかは、その集団の自律性の高さを如実に表す。なんでもかんでもルールにしてしまう集団は、自律性の低い集団だと言える。最低限のルールだけ決めて、あとは状況に応じた判断ができる集団は自律性の高い集団だと言える。
 当然自律性の低い集団の中にいれば、個々人の自律性は高まらないし、自律性の高い集団の中にいれば、個々人の自律性も高まる。
 「教師たちの最高の力量は、自由という空気の中でのみ花咲くものである。これを整備することが教育行政官というものの責務であって、その反対ではない」と、戦後日本の教育現状を視察した米国視察団はマッカーサーに提言した。その通りだと私は思う。
 現在の公立と私立の学校のいちばんの違いはそこにある。かつて、1960年代ごろまでだろうか。公立が圧倒的に良いとされていた時代は、公立の学校でも、お上かみは余計な口を出さず、教師たちが主体性と誇りを持っていたと聞く。公立の高校の教師が著した参考書が、ベストセラーになるということも頻繁にあった。
 公立の学校を本気で良くしていきたいのであれば、文部科学省や教育委員会が余計な口を挟まず、もっと現場の教師の裁量を増やし、学校単位での独自の教育を認めていくべきだと私は思う。まず教師たちに、主体的に生きている自負と誇りがなければ、子供たちの「生きる力」を伸ばす教育などできないのではないだろうか。
 それをしないで、「学費の高い私立で良い教育を受けられるということは、経済格差が教育格差を助長することになる。だから私立の学校にはなんらかの抑制をかけなければいけない」というのは、おかしい。まさに「出る杭は打つ」的な発想ではないか。そうではなくて、「出る杭にそろえる」ように全体を引き上げる発想が今、必要だろう。
 日本の教育行政では「出る杭は打つ」ようなことがよく行われる。なぜか。
 教育における平等の概念がおかしいのではないかと私は考えている。日本では、みんなが一斉に同じ教科書で同じことを学ぶという見せかけの平等を平等と呼んでいるようだ。でも私は、子供もしくはその親が、自分に合った教育を自分で選べる「機会の平等」こそ、本当の教育における平等だろうと思う。「いい子」ばかりがすごしやすく、やんちゃ坊主にとっては窮屈な学校しかないというのでは、そのこと自体が不平等だと感じる。その意味で、私は常々、教育には多様性が必要と訴えている。
 「これからはダイバーシティー(多様性)の時代」というのであれば、「国民全員が平等で画一的な教育を受けなければいけない」という思い込みから早く脱却しなければならない。
 一般的には、教師の裁量が大きいと、授業の質や内容に差が出るという懸念もあるようだが、授業で取り扱う内容に差があることで、教育の本質にどれだけの差が生まれるだろうか。授業は学びのきっかけにすぎない。各教師が自分の得意分野で勝負して、子供に学ぶ喜びを与えることができれば、そこから先は子供が自ら学び出すはず。むしろそれぞれ違った方法で学びはじめる。学びとは本来そういうものではないだろうか。教師に裁量があることで、児童により多くの喜びを与える機会が生まれるのであれば、そのほうがより本質的な教育に近づくはずだと私は考える。
 実際のところ、小学生が相手では本人任せというわけにはいかず、教師や親がある程度介入しなければならず、ある程度の画一性が必要なことは私も認める。しかし、方向性として望ましいのは、画一性よりも多様性であろうと私は思っている。
 学校には今、数々の問題が山積みになっている。今後それらを本気で解決していくには、そもそも学校とはなんなのか、教師とはなんなのか、教育とはなんなのか、なぜ人は勉強しなくちゃいけないのかなどという大きな問いに、教育関係者や保護者だけでなく、社会全体が取り組まなければいけないのではないか。
 今、この国に教育危機というものが存在するのであれば、それは、子供たちの学力低下とか教師の力量不足とかいう次元のことではなくて、そもそも教育とはなんなのかが正しく共有されていないことではないかと私は思う。
 教育は社会や文化と密接にかかわるもの。社会や文化が変わらないのに教育だけがガラリと変わるということはあり得ない。もし無理矢理そのようなことをしようとすれば、必ずどこかに歪みが生る。
 教育を変えていくのに、一打逆転のホームランなんて狙わなくていい。本来教育とは、社会や文化の変化に合わせて少しずつ自然に変わっていくもの。それをルールやら制度やらで縛るから自然な変化が損なわれ、時代遅れになってから慌てて大手術をするハメになるのである。
 「教師たちの最高の力量は、自由という空気の中でのみ花咲くものである。これを整備することが教育行政官というものの責務であって、その反対ではない」
 現在のこの国の教育を本当に良くしていこうと思うなら、教育委員会よりも学校に、学校よりも教師たちに、もっと大きな裁量を与えるべきだと私は思う。しかし、今政府レベルでされている議論は、残念ながら逆方向に向かっていっているようだ。このままでは教育の劣化はますます進むのではないかと心配だ。


※この記事は、拙著『オバタリアン教師から息子を守れ』(中公新書ラクレ)より著者自身が抜粋・加筆・再構成し、月刊『世界と日本(1255号)』に掲載したものを、転載しています。