10/30に拙著『注目校の素顔 渋谷教育学園幕張中学校・高等学校』が発売される。
今や御三家と肩を並べる実績と人気を誇る学校の、教育の本質に迫ります。


中学受験 注目校の素顔 渋谷教育学園幕張中学校・高等学校―――学校研究シリーズ009/ダイヤモンド社
¥1,296
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以下、この本の中から、著者として気に入っている部分を抜粋してご紹介します。

学年ごとの研修行事みたいなものもいろいろあって、そういうのは基本的には現地集合・現地解散でした。修学旅行も現地集合・現地解散。宿泊するホテルだけは決まっていましたが、行き帰りのルートも観光する場所も、自分たちで決めるのです。団体旅行という形式ではない。
林間学校では飯ごう炊さんなどをするわけですが、何を食べるのかも班ごとに決めます。
カレーを食べたいならカレー用の食材を自分たちで考えなければいけないし、バーベキューをするならそういう準備をしなければいけません。それも楽しかったですね。
何でも自分たちで考えて決めることの楽しさを教えてもらった気がします。人から与えられた地図に描かれたルートに従って歩くのではなく、自分で自分の地図を描く姿勢が染みつきました。それは文字どおりの「地図」という意味だけでなく、きっと、自分にとって興味のある場所やものに向かって行く力というか、人生の中での自分の地図の描き方というようなことを教えてもらったのだと思います。その感覚は今の自分にものすごくつながっていると思います。
(「卒業生インタビュー」落語家・立川志の春さん)


コンピュータが人類の知能を上回ってしまったとき、世の中がどうなるかなんて誰にもわからない。しかし、生徒たちはそういう世の中を生きる確率が高い。そのために今、学校は何をすべきなのか。未来予測に基づく教育などできない。未来は予測できないという前提に立ってこそはじめて教育が成立するという逆説が見えてくる。
「2045年にはこんなことやこんなことが必要になるから今のうちにこれとこれをやっておきなさいなんてこと、私が決められるわけがないじゃないですか。だから自調自考なんです」
それが教育の本質であると私も思う。教育とは、スマホにアプリをインストールするように子供にあれこれ詰め込むこととは違う。教育とは、子供自身が正確に時代を予測し、生きていくために必要なものを判断し、どうやったらそれを獲得できるのかを考え、実際にそれを獲得するための努力をし、得たものを最大限に活用して生きていけるようにする営みである。「自分で自分を育てていく能力の開発」こそが大切だ。「生きるためのスキル」と「生きる力」は違うのである。


「過去の知識は何でもインターネットで調べられる。過去のことを学んでも意味がない」。そううそぶく人がときどきいる。しかし田村校長の考えではそうではない。「思想の旅─経路と起源─」は、インターネット上の情報だけではわからないということだ。
「温故知新」というとなじみがある。しかしそれを本当に実践できている人は大人でも少ない。渋幕ではそれを生徒たちに問いかける。「自調自考をするためには、まず過去の叡智を学ばなければならない。最初から便利なものに頼るのではなく、自分の頭で理解し、咀嚼し、未来に役立てる方法を考えなければいけない。覚悟はあるか」
渋幕では、誰も「答え」を教えてくれない。「答えは自分で探すもの」。そのためには教養が不可欠。そのことに気づかせるため、田村校長は直々に教壇に立ち、校長講話を続けている。それが渋幕流、田村流の教育なのである。


「自調自考」という言葉は、一義的には、生徒に対する「自ら調べ、自ら考えよ」というメッセージだととらえられる。しかし、渋幕という学校を見ていると、もう一つまったく別のメッセージが含まれているように私には感じられる。
生徒に対するメッセージではない。教員もしくは学校、もしくは世の中の大人たちに対して、「子供たちは自ら調べ、自ら考える力を元来もっている。それを信じて見守ろう」というメッセージだ。
名門校と呼ばれるような学校には、「生徒を信じて見守る」ムードが共通している。そういう学校にはトップレベルの生徒が集まってきているからこそ、生徒への信頼をベースにした学校運営ができるのではないかと、これまで私は考えていた。しかし渋幕の歴史を学べば、そうとも言い切れないことがわかる。


高1から高2にかけて取り組む「自調自考論文」は渋幕の教育の象徴だ。「自調自考優秀作品集」に掲載されている論文を見ると、そのレベルの高さに驚くばかりだ。論集を自慢にしている学校は多いが、渋幕の自調自考論文は群を抜いてレベルが高い。
もちろん全員がこれほどの力作を書けるわけではない。中には論文に消極的な生徒もいる。しかし毎年編纂される「自調自考優秀作品集」は、渋幕のそれまでの教育の集大成といって間違いないだろう。そのレベルは年々上がっている。
東大の合格者数での躍進ばかりが注目されがちだが、私はむしろ自調自考論文のレベルの高さにこそ渋幕の実力を見る。渋幕が単なる受験進学校ではないことを、この論集が雄弁に物語っている。


職員室の周辺にはいろいろな形のベンチや腰掛けがあり、そこで生徒と教員が立ち話とも面談ともつかぬ距離感で話をしている風景をよく目にする。外国人講師と生徒たちが談笑するのも渋幕ではごくありふれた風景だ。
階段の踊り場には生徒や卒業生が描いた絵画や書が飾られている。ちょっとしたスペースに、現代アート的なオブジェが何気なく置かれていたりもする。ところどころにピアノも置かれている。いつでも誰でも自由に弾いていい。特に合唱祭の前などは、そのピアノの取り合いになるのだという。校舎を単なる勉強するための機能的な空間として設計するのではなく、多感な時期の子供たちが心地よく、安心して過ごせる空間として設計していることがわかる。どんなところにも居場所が見つけられる。学業に部活にと忙しい渋幕生ではあるが、
校舎の中に漂う空間的な「ゆとり」が、生徒たちの心理に与えるポジティブな影響は少なくはないだろう。