6月11日の日本経済新聞と、6月12日の毎日新聞に真逆とも言える論調の記事が載っていた。大学改革についてだ。日経が書きそうなことを毎日が載せて、毎日が書きそうなことを日経が載せていることはちょっと面白いが、それはどうでもいい。(ただし毎日の記事は、毎日新聞としての主張ではなく寄稿されたもの)

 

・春秋 日本経済新聞 2015年6月11日

http://www.nikkei.com/article/DGXKZO87944500R10C15A6MM8000/?n_cid=kobetsu

 

・経済観測:役立たぬ「学術教養ごっこ」 毎日新聞 2015年06月12日 東京朝刊

http://mainichi.jp/shimen/news/20150612ddm008070133000c.html

 

ニーズに応えることは必要条件であって十分条件ではない。世の中のニーズに答えるだけでは世の中を変える力は生まれない。世の中が停滞する。

大学は世の中からある程度隔離された空間であるがゆえに、そこにおいて、世の中では生まれなかったであろうイノベーションが起こることがある。損得勘定を抜きにして、純粋に「なぜ?」を追求していったときに、思わぬ発見があり、それが思わぬ形で世の中に革新を起こす可能性がある。

わかりやすい理系的イノベーションばかりが学問の成果ではない。一見何の役にも立たなさそうな文系の学問そのものにも、一人の人間が世の中をより高解像度でより広い空間的・時間的視野でとらえられるようにする力がある。一人ひとりがその力をもちよって社会を築いていくことで、社会はじわりじわりと良くなる。しかしそれが学問の力によるものであることは、ほとんどの場合誰も自覚していない。学問とは持って歩くものではなく、血となり肉となってその人の一部になるものだから。それが教養。

急速に拡大する産業界のニーズを満たす教育機関として、明治以降、日本は何度か実業学校をつくったが、結局ニーズがなく、流行らなかった。結局産業界は大卒を重用した。それをまた繰り返すのか。いや、今回はもっとリスキーだ。大学のほかに実業学校をつくろうというのではなく、大学を実業学校にしてしまおうということだから。

産業界のニーズを満たすことに特化した教育機関を試しにつくってみてもいいが、その役割を大学に担わせたら、社会として、大学の本来的な役割をどうやって担保するのか。ひとたび大学を実業学校にしてしまい、それが失敗だったと気づいたとしても、ふたたびそれを本来の大学に戻すことはほぼ不可能だろう。それでは世の中が停滞し、フラストレーションがたまり、それをみんながお互いに他人のせいにし始める。

いや実は、すぐに役立つものや可視化・数値化できるものにしか価値がないとする風潮は今に始まったことではない。すでに世の中は停滞のフェーズに突入していると考えていいだろう。「何かがおかしい」と誰もが思うが、もう誰が悪いのか、何が悪いのか、何をどうしたらいいのかもわからない状態だ。今回の文系学部への冷遇方針はそれに拍車をかける形になるはずだ。

この局面を脱するには、再び地道に、一見価値のなさそうなものを積み上げていく以外に近道はないのではないだろうか。