政策としての都構想が良かったのか悪かったのかは別として。ひと言だけ雑感。

 

勝つか負けるか、正解か間違いかという発想自体が民主主義的ではない。民主主義と多数決は似て非なるもの。民主主義では、51対49のとき、51の陣営が100%好き放題やっていいわけではない。

 

今回の「頓挫」は、政策の善し悪しではなく、民主主義における合意形成のプロセスとして、「待った」がかかったのではないかと僕は解釈している。

 

49の意見も考慮して、全体としての納得解を導き出すプロセスこそが民主主義。昔、聖徳太子が7人の話を同時に聞いたというのは、単に同時に理解したというだけではなくて、7者7様の要望をすべて聞き入れたうえで、7人全員が納得できる解を提案する調整能力があったという意味だと思う。それが「和を以て尊しと成す」という意味だろう。対立を煽るのではなく、対立構造を解消していくのが政治家の役割ではないか。

 

決まったからには49側の人も51側の人に歩み寄り、お互いに協力しようというのが民主主義の精神。投票結果が出たら、ノーサイド。だからまどろっこしい。なかなか決まらない。でもその分、急激な圧力にもちこたえることができる。それが良くも悪くも民主主義。

 

「決める政治」「切れ味の良い政治」をしたいなら民主主義はそもそも最悪なのだ。それでもいろんなリスクを考えたら、民主主義がいいという選択をしてきた歴史がある。

 

「負けたから、自分が間違っていたようだから、やめる」というのでは民主主義は機能しない。彼にはまた別のステージで活躍してほしい。たぐいまれなる才能のある人だと思う。でも、彼は最後の最後で、民主主義社会における政治家としての自分の決定的欠落を証明して見せた。彼はもともと民主主義社会における政治家としては向いていなかったのだと僕は思う。

 

しかしそれを「潔い」という人が多いことに僕は戸惑っている。全く悪気はないのだろうけれど、それは民主主義社会の住民の発想ではない。多くの人が無意識の中で、排他的政治つまるところの独裁を望んでいるのかもしれないと思うとぞっとする。


※2015/5/20追記
上記とほぼ同主旨のことを、法律の専門家が詳しく解説しているブログを見つけたので、貼っておきます。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/ef998c186d5e1bdd135f8f5116166b79