医師であり、友人であり、ほぼ毎日ユニークなエッセイをFBで披露してくれる高橋宏和君の本日の良視点エッセイをシェア。

<まず企業側は学校教育の非能率を難じた。教師側も決してうまく行っているとは思っていなかったから、さっそく恐縮、改善しましょうとお人好しにもこれに応じた。 調子に乗った実業界は、学校はもっと役に立つことをやれ、と注文をつけた。まっさきに槍玉...

Posted by 高橋 宏和 on 2015年4月11日


歴史はくり返す。それはいい。しかし昔うまくいかなかったことを昔と同じようにやるのは能がない。そこに歴史を学ぶ意味がある。単に日本史や世界史みたいな概論をやればいいということではない。教育なら教育の、産業なら産業の、過去の時間的経緯をおさらいするということ。その作業をするときに、日本史やら世界史やらをやったことが実は役に立つ。過去の経緯への敬意が、謙虚さをもたらす。傲慢さの中では気付けなかったことを気付かせてくれる。音楽や体育も欠かせない。音楽も体育も、過去の記憶と未来への予測を結びつけなければできないものだから。物事を、瞬間的に、一面的に、スチール写真のようにとらえるのではなく、時間の流れの中で、立体的に、3Dの動画としてとらえる感覚が身に付く。これらがメタな意味での「生きる力」になる。だから学校では、経済活動上は一見何の役にも立ちそうもない歴史や音楽や体育も学ぶ。

「グーグルで調べれば何でもわかるから、これからは知識なんていらない」という意見もあるが、グーグルの中では時間が漂白されてしまっている。大切なのは漂白された知識ではなく、それぞれの知識がどういう過去を引きずっているのかまでを理解すること。そこまで理解して、初めてその知識を未来に活かすことができる。

時間的視野を、未来にだけ広げることはできない。現在を中心に未来にも過去にも同じだけ広がる。何らかのテーマにおいて10年後のことを語りたいのであれば、そのテーマにおいて少なくとも10年前のことまでは学ばなければいけない。100年後の教育を語りたいのであれば、100年前の教育にまで遡って学ばなければいけない。結構大変なことだけど、それを続けることが謙虚さだと思う。

だから科学者も歴史学的素養をもっていなければ実はつとまらない。逆もしかり。歴史学者であっても科学的素養がなければつとまらない。何をするにしても必要になる素養がいわゆる教養。一度教養の核を獲得すれば、経験したこと、学んだことを雪だるま式にくっつけていくことができるようになる。自分がすでに持っている知識から、新しい知識に触手が伸びてつながるようなイメージ。そうやって得た知識には時間的経緯という神経のようなものが通う。知識と知識が有機的に結びつくようになる。知識をポケットの中にしまうのではなく、知識が自分の体の一部になる感じ。

きりがないので、もうやめる。けど、言いたいことは、「生きるためのスキル」に目をうばわれて「生きる力」をおろそかにするのは本末転倒ということ。