今、教育の界隈では、「脱ペーパーテスト」や「実学主義」がさかんに叫ばれています。結構なことだと思います。しかし元来、記憶することやペーパーテストでいい点数を取れることが悪いわけではありません。

せっせとまじめに勉強することはかっこ悪いという風潮はなぜできてしまったのでしょうか。

 

まず、拙著『名門校とは何か?』から引用します。

>>以下引用

 日本では、教育が立身出世のための手段として広まったため、教育を受けたことによる利益は、教育を受けた本人のみが享受して当然とする社会通念ができた。教育が、「勉強という役務と引き替えに社会的優位を得る商取引」のようになった。取引条件に少しでも偏りがあれば「ずるい」と感じる。

 日本の平等至上主義的教育システムは、この「ずるい」という感覚をベースに成り立ってしまっている。

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次に、拙著『進学塾という選択』から引用します。

>>以下引用

 世間的には「塾=悪」と批判されていながら、親は子を塾に通わせたのである。批判に屈し教育をあきらめるわけにはいかない、背に腹は代えられないという思いであったのだろう。そのときの葛藤を思うと、私の胸は痛む。

 せっかくわが子のためにより高度な教育を受けさせたいという親心やもっと勉強したいという子どもの気持ちがあっても、それを素直に表現できない社会になってしまった。早くから塾に通わせる親は、教育ママなどと呼ばれてしまった。塾通いをする子どもは、友達にそれと気づかれないように振る舞わなければならなかった。

 自分が歯を食いしばって努力している姿を、世間が白い目で見る。それではやる気も自信も奪われる。卑屈にすらなる。白い目で見られるのが嫌で、塾通いを嫌う。しかし親は心を鬼にして、塾で勉強するように子どもに伝える。親子間の緊張が高まり、ときに衝突する。なんという悲劇だろう。

 かくして日本は、スポーツに打ちこむ子どもは子どもらしくてよろしいと褒められるのに、勉強に打ちこむ子どもはかわいそうと同情される社会となってしまった。

 「乱塾キャンペーン」は、塾を減らしたり、中学受験熱を冷ましたりはしなかった。代わりに、勉強に対する斜に構えた態度を、全国の子どもたちに広めるという結果をもたらしたのであった。

<<以上

 

以下、現在の女子学院の院長(校長)先生の風間先生が、科学者として1998年に発表した論文。「知識偏重主義」への揺り戻しとしての「知識軽視」へ警鐘を鳴らしていました。特に12ページ目後半からの、大人から子供へのダブルバインドのメッセージに対する痛烈な批判は、必読です。

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夢を抱き,理想に生きようとするはずの中学高校時代に,その若者を取り巻く言 葉は,「よくないことだが,やりなさい」という,夢・理想とは正反対のメッセージである.しかも,最も何かに夢中になれるはずの時期を, 繰り返しがきか ない一回きりの人生として生きている彼らに,「とりあえず覚えなさい」という.「本当はよくないことだが,とりあえずやりなさい」というメッセージほど,生きる意味を喪失させ るものは,そうあるものではない.これが彼らのストレスにならないはずがあろうか?「受験勉強=悪」というパターン化した思考の産物と同様に, マスコミにあおられた「記憶学習=悪」というパターン化の産物に他ならない.

<<以上

 

昨日、東大教養学部の式辞も回ってきました。

平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞

>>以下引用

あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。

<<以上

 

「学校の勉強など社会に出てからは役に立たない」とか「教養などあっても1円にもなりゃしない」などという人は、「社会は安定している。その中で、自分たちが自分たちの利益だけを追求し続けてても、社会は壊れない」という「お気楽楽観主義」に根ざしているのではないでしょうか。お金にならないことを考える力が、社会を安定させていることをもっと認識すべきだと私は思います。