東京の私立中高一貫校の雄、開成と麻布。どちらも伝統校であり、超進学校であり、それでいて自由な校風であることが共通している。しかし2013年、この2校それぞれの教育を象徴するような出来事が起きた。キーワードは運動会だった。

 

 

集団の中でもたくましさを発揮できる大人を育てる

 

1982年から東大合格者数全国1位の座を独占している開成の教育の中心は運動会である。「ペンは剣よりも強し」を表す校章のオリジナルは、1886年の第1回運動会のときにデザインされたといわれている。

 

入学後最初の昼休み、いきなり高校3年生が教室になだれ込んできて、「箸を置け!」と新入生を怒鳴りつける。そこから毎日、4月のボートレースの応援の練習と5月の運動会の練習が始まる。それが新入生が開成の一部になるための儀式なのだ。開成OB同士がどこかでで会うと、ひと言めには「何色でした?」と会話を交わすのがお決まりだ。運動会の組の色を聞くのだ。

 

2013年5月、運動会の前々日に、運動会を中止しなければ生徒に危害を及ぼすという内容の脅迫状が届いた。どう対応すべきか、教員は運動か運営の主要メンバーに判断を委ねた。彼らは「残念だが、一般公開は諦め、保護者のみ入場可能にする。さらに徹底した警備体制をしき、後輩たちを守る」と判断した。1年を掛けて準備してきた運動会である。例年通り盛大にやりたい気持ちだってあったに違いない。しかし、後輩たちを守ることを第一に考えたのである。

 

彼らはたった2日間で部外者を校内に侵入させない仕組みを考えた。運動会は例年以上の盛り上がりを見せ、感動のうちに幕を閉じた。ある教員は「彼らは本当のリーダーですよ。こちらの頭が下がります」と笑った。

 

「開成の教育は、運動会に始まり運動会に終わる」というのは決して大袈裟な物言いではないのである。柳沢幸雄校長は、開成のことを、「個人としてだけでなく、集団の中でたくましさを発揮できる大人を育てる学校」と表現する。

 

 

問題を起こしてからが本当の教育

 

一方、戦後新学制に移行以後ずっと東大合格者数トップ10を外れたことのない唯一の学校が麻布である。進学実績だけでなく、とびきり自由な校風で有名だ。

 

2013年の運動会は直前で中止された。実行委員のメンバーがたびたび不祥事を起こしたためだ。単なる不祥事なら日常茶飯事。しかしこのときは、麻布の財産ともいえる自由と自治が危機に瀕しているサインだと、学校側は判断した。

 

運動会当日は、運動会を中止にする代わりに、全校生徒が登校し、今麻布に何が起きているのかを話合った。単なる反省会ではない。自分たちに認められている自由や自治の権利の価値を、自分たちは理解しているか。自由や自治の権利を守るにはどうしたらいいのか。それを話合ったのだ。

 

今でこそ麻布は自由な学校の代名詞的存在であるが、麻布の生徒が今のような自由と自治を手に入れるまでには闘いがあった。1970年前後に繰り広げられた学園紛争である。全国の高校紛争でもまれに見る、生徒側の勝利だった。このとき麻布に、「誰かに定められた規律によるのではなく、自ら定めた規律に従うときにのみ、自由である」という理念が生まれた。

 

創立者の江原素六は板垣退助らとともに自由民権運動に携わっていた。麻布はもともと、「この国に民主主義が根付くか」を試す、実験場のような学校なのである。不祥事のために運動会を中止し、全校生徒で議論することも、麻布においてはまたとない教育の機会なのである。

 

「問題児を退学させることは教育の放棄でしょう。問題を起こしてからが本当の教育ではないでしょうか」と、平秀明校長はよく口にする。

 

 

偏差値や大学進学実績では計れない価値がある

 

学校とは、決してテストのための学科を教えるだけのところではない。「運動会」というイベント一つを取ってみても、それをどのように教育に活かすのか、学校によって違う。また、学校の歴史を紐解いてみると、その意味がわかる。

 

特に伝統校の歴史はそれだけで興味深い。

 

・灘は、23年間にもおよんで東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長を務めた嘉納治五郎が理想の学校を目指して創立した。戦後のどさくさの中で、優秀な生徒を集めるためにあるウルトラCをやってのけた。そして進学校として有名になった。

 

・お笑いコンビくりぃむしちゅーの二人を輩出した熊本の県立済々黌に伝わる教育理念「三綱領」は、教育勅語のもととなったともいわれている。

 

・埼玉県には、1882年から10年間中学校が作られなかった。薩摩出身の当時の県知事と自由民権運動を支持する改進党の間での政治的しがらみのせいだ。そのしがらみの中でようやく作られた旧制中学が、現在の県立浦和高校の前身だ。

 

・広島の私立修道や福岡の県立修猷館のように藩校以来の伝統を引き継ぐ学校もある。江戸幕府が倒れ、廃藩置県の大混乱の中で、どうやって藩校以来の伝統を引き継いだのか、苦労が忍ばれるエピソードが多い。

 

・明治政府が女子教育をないがしろにしていたため、政府による制約が少なかったからこそ、多様で華やかな女学校文化が花開き、それが現在の女子校にも引き継がれているとも考えることができる。

 

また、日本に「東大信仰」が広まった理由も、戦前の教育史を丁寧に見ていくと見えてくる。

 

以上、詳しくは、『名門校とは何か? 人生を変える学舎の条件』をお読みいただけると幸いだ。

 

そろそろ週刊誌各誌が、「大学合格者ランキング特集」を組み始める。しかし、名門校に受け継がれる文脈の壮大さ奥深さそして人間臭さを知ってしまうと、偏差値や進学実績といった瞬間的かつ一面的な基準で学校を論ずる無意味さや、場当たり的な教育改革議論に対する違和感あるいは嫌悪感から逃れられなくなってしまうはずだ。

 
 

 

 

『名門校とは何か? 人生を変える学舎の条件』(おおたとしまさ著、朝日新書)

私立・公立・国立の全国有数の名門校の生い立ちから現在を紹介。名門校と呼ばれる学校に通底する要素を分析した。東大・京大・旧帝大・国公立大医学部合格者数ランキングなど過去数十年分の保存版データも満載。