STAP細胞が発表されて、小保方さんが一躍時の人になったとき、さっそく某web編集部から「小保方さんみたいなリケジョの育て方」みたいな記事を書いてくれと依頼され、即行断った。

そもそも子供を思い通りにデザインしようという趣旨のことは僕は書かないのだけど、それ以外に、小保方さんの立ち居振る舞いを見て、「これはまだ本物かどうか分からない」と直感したから。
「今更そんなこと、後出しじゃんけん」と言われそうだけど、でもそのときに何の根拠もなくそういうことを発言するのもよろしくないと思ったから知り合いの前でしか言わなかった。
科学的なことには疎いのだけど、そういうことではなくて、小保方さんの振る舞いに、恐怖みたいなものがみじんも感じられなかったから。
STAP細胞が本物ならノーベル賞は間違いないし、人類にとってものすごい発見。そんな発見をしてしまった人は、とてつもなことをしてしまったという恐怖が、絶対に振る舞いのどこかに紛れ込むはず。
でもそれがまったくなかった。テレビに映っている範囲でしかないけど。
世紀の大発見をしてしまった人のオーラというか、謙虚さというか、おびえた様子が、感じられなかった。
「えーーー、なんかいろいろやってみたら、たまたま見つけちゃったんです!」みたいな感じにしか見えなかった。
だから、「STAP細胞を評価するのはまだ早い」と感じた。
むしろ「なんでまだ真偽も分からないことにみんな浮かれてるの?」という記事なら書きたかった。
でも、冒頭の依頼を断るとき、そういう理由を説明するのも面倒だったので、ひと言「ごめんなさい」とだけ書いて返信した。

STAP細胞をめぐる一連のことについて「寛容さ」がなくなっていくみたいな論説もあるみたいだけど、それとこれとは別。
小保方さんには奮起してもらいたい。
その意味で彼女の人格や人生を否定するのはよろしくない。
しかし、彼女の行為は断罪されるべきこと。
愚かな行為のために膨大なお金と時間が無駄になった。
こういうことが起こると、科学の進歩が遅れる。
まじめにやっている科学者たちへの最大限の背任行為だと思う。
人類への背任行為と言ってもいいと思う。
みんなが迷惑する行為。
結局何が愚かな行為の本質だったのかがよくわからないのが、気持ち悪いのだけど。

これは単なる素人の推測なんだけど、小保方さんはみんなをだますつもりがあったんじゃなくて、自分がだまされたんじゃないかって。
砂場で子供が金色の砂みたいなのを見つけて「あ!砂金見つけた!」って大喜びしちゃうみたいに、「STAP細胞みたいなものができちゃった!」って、本当に思い込んでいたのではないか。
要するに実はそれくらい素人なんじゃないかって。
そのうち本人の口から「どうしてこうなったのか」についての説明があるんじゃないかって思う。
まわりが騒ぎ立てているうちは、防衛本能ばかりが働いて、真実を語ろうとは思えないと思うので、そういう意味ではしばらく余計な荒波はたてないほうが世のためだと私も思う。

しかし、それと寛容とは別物。
社会に不利益をもたらす明らかな不正を働いたのにそれを認めない者を追求するのは社会の責任。
そこをお目こぼしすることを「寛容」と呼ぶのなら、本当の「寛容」の意味が薄れる。
電車の中で泣く子をしょうがないと思うのは「寛容」。
急いでいるのに、前を歩いているお年寄りが歩くのが遅くて困るけど、それもしょうがないなと思うのは「寛容」。
レストランでオーダーミスがあっても、店員さんがちゃんとミスを認めて適切な対処をしてくれているなら「まあ、いいよ」と言えるのも「寛容」。
でも、意図的な悪事に対して、それをなあなあにすませるのは癒着とか馴れ合いに近い。
猪瀬元知事の疑惑追及の時にもそれを感じた。
あれを「いじめ」という人がいたけど、違う。
本人が認めているならそれ以上のバッシングは「いじめ」だけど、あきらかにはぐらかしているものを、「まあ、いいか」とは言えない。
あれは嘘に嘘を重ねることで、自分の首を絞めていただけ。
それでも嘘を突き通さなければいけないもっと苦しい裏事情があったのだろうけど。
ただし、人格や人生そのものを否定するのはダメ。
あくまでもやってしまった行為に対しての追求、批判に徹すべき。
「人と事を分ける」「罪を憎んで人を憎まず」

まとまりないけど、以上。