『「謎」の進学校麻布の教え』という新書を読みました。
オビに「このが校何かが『変』だ」とあります。
辛酸なめ子さんのコメントも秀逸。
「中二病だけでは収まらない、一生続く『麻布病』の存在を確信しました」

麻布生、麻布の教員の生の声が読めます。
平校長の「『最終学歴・麻布』で十分やっていける教育でやってますから」というセリフが私は好きです。
その通りだと思います。
著者の「自由になれと教える学校」という分析も正しいです。
麻布は単に自由な学校なのではなく、自由に生きる術を授ける学校なのです。

拙著『注目校の素顔 麻布中学校・高等学校』も合わせて読んでもらえると、麻布のことがもっとよくわかると思います。
拙著のほうは、どうして麻布が「変な学校」になったのかという部分に踏み込んでいます。
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ちょうどいいので(?)、今年3月に発行されたPTA会報に寄稿させてもらい、卒業生からも先生方からも保護者からも評判が良かった「麻布論」の全文をここに転載します。「継承と創造」というお題をいただいて書きました。上記拙著の「つづき」のような話です。麻布関係者向けに書いたものなので、かなり思い入れが強いのはご容赦を。




「放蕩息子の宝物」


 「麻布とは単に『自由な学校』なのではない。『人生を自由に生きる術を伝承する学校』なのだ」ということを、拙著『中学受験 注目校の素顔 麻布中学校・高等学校』(ダイヤモンド社)の最後に書いた。

 この場を借りて、その続き的なものを書こうと思う。あまりに独断と偏見に過ぎるため、市販の書籍には書くことがはばかられた麻布論である。

 「自由」とは、何事も他人のせいにはできないということ。それが大変心地いい。常に自由でいると、人生における瞬間瞬間に、「今、自分はほかの誰でもない自分の人生を生きている」という緊張感と満足感を味わうことができる。だから人生が何倍にも濃密で刺激的なものとなる。麻布とはそういう自律的な人生を送るための術を授ける学校なのだと私は思う。そして私自身が、今、めいっぱいその恩恵にあずかって生きていることを感じている。ただし、「自由」とは「諸刃の剣」のようなものである。「自由」とは魅力的かつ大変危険なものなのだ。そのことは麻布関係者なら、みな承知だろう。

 人類は、「魅力的だが危険なもの」を使いこなしてきた。たとえば「火」。最近では「インターネット」や「原発」というのも、「魅力的だが危険なもの」といっていいだろう。そして、人類がこれまで手にしたものの中でも最も「魅力的だが危険なもの」が「自由」であると私は思う。「動物は自由だ」という人がいるが、私は違うと思う。動物は与えられた環境の中でしか生きられない。自分で生き方を選ぶ自由をもっていない。

 だがしかし、人類は、原発同様、「自由」の取り扱い方をいまだ体得していない。世界中で「自由」に基づく「権利」がぶつかり合い、諍いが絶えないことがその証拠だ。そして麻布とは、大胆にも、人類がいまだ使いこなせていない「自由」を使いこなせる人間を育てようとしている学校だと私は思う。江原素六は、自らが乱世の中で身につけた「人生を自由に生きる術」を青年たちに伝えていくことで、100年経っても200年経ってもいいから、みんなが自由に生きられる理想の社会を実現したいと思って、麻布を開いたに違いない。麻布とは、「人類は『自由』を使いこなせるのだろうか」という壮大なテーマに挑む実験室なのだと私は思う。麻布の教育はいわば「危険な実験」なのだ。

 麻布では人類史上もっとも「魅力的だが危険なもの」である「自由」を、まず生徒たちに触らせる。初めて包丁を握った子どもを傍らで見ている親のハラハラ・ドキドキ感を想像すれば、それがどれだけ心臓に悪いことであるかがわかるのではないかと思う。そして当然ケガもする。麻布においてときどき起こるトラブルは、自由の取り扱い方を間違えたための事故であるといえるだろう。麻布のすごいところはそこからだ。すぐに手をさしのべるのではなく、自力で立ち上がるのを待つ。これがどれだけ忍耐のいることか、自らも親となり、不惑の年を迎えた今ならわかる。このことを思うと、卒業して20年以上が経って、いまさらながら、先生たちに感謝したくなるのである。といって、私は特に不良だったわけでもない。友人のYくんや、先輩のOさんの代わりにお礼を言うのである。

 ただし、麻布がそれだけおおらかに「危険な実験」を行えているのには前提がある。このことは先生たちの口からは言いづらいだろうから代わりに言う。

 誰からも文句の言われることのない大学進学実績があればこそ、「危険な実験」をしていても、誰からも文句を言われないのだ。この前提がなくなれば、麻布も今のような教育を続けることは困難になるのではないかと思う。

 麻布生には「大学受験なんて……」と、受験勉強をバカにすることで格好つけてみる風習があると思う。私もそのたちである。大学進学実績や偏差値のみで学校の価値を測る雑誌への執筆はお断りしている。しかし同時に、麻布以外のいろいろな学校を取材した経験から、大学進学実績が、私学経営のアキレス腱になることもよくわかっている。どんなに高尚な理念を掲げていても、過去の栄光があったとしても、大学進学実績が低迷すると、教育の足下が揺らぎかねない。たかが大学受験、されど大学受験なのである。

 「大学受験なんて……」と格好つけるのはいいが、先輩たちが残してくれた伝統の上にあぐらをかき、自分たちだけ自由を謳歌しながら、次世代に何も残せてやれないとしたら、格好が悪いだろう。それは麻布という伝統を食いつぶすことに等しい。「放蕩息子」と呼ばれても仕方がない。「いい大学」に行くことが麻布に入学した目的ではないし、人生のゴールでもないことは言うまでもないが、麻布が麻布であり続けるために、先輩たちから受けた恩を、後輩たちに継承することは、麻布の伝統を受け継ぐ者として、最低限やらなければならない責任だろう。

 その点、高2の終わりくらいまでは好き勝手なことをやっていながら、最後はちゃんと帳尻を合わせて、最低限の結果を残すことが格好いいという感覚が麻布生にはあると思う。「自由」と「勝手」は違うのだということを6年かけて学び、それを証明して卒業する。それが麻布生のスタイルである。

 その結果が「戦後の新学制施行以降、一度も東大合格者数トップ10から外れたことのない唯一の学校」という実績であろう。60年以上トップ10以内にいるのに、一度も1位にはなったことがないというツメの甘さも、私には麻布らしく感じられて好きだ。

 ……と、偉そうなことを言う私こそが、何を隠そう、いまだに麻布のすねをかじる放蕩息子であるのだけれど。

 卒業20周年を記念して、地下食で開催された同窓会で、M先生と会話を交わした。友人たちが「今になって麻布がいい学校だったとつくづく思います」と口をそろえる。するとM先生は、「麻布がいい学校だってことは、君たちを見てれば一目瞭然なんだよ。君たちがそれを証明しているんだよ」と、20年前と変わらぬ、飄々とした語り口で、言ってくれた。お約束のセリフだとわかっていてもうれしかった。そして、麻布で身につけた「人生を自由に生きる術」を駆使し、たくましく生きる仲間たちを見ていると、本当にそう思う。そして自分も彼らとともに育った仲間だと思うと、それだけで、自分に対しても自信がもてる。

 「オレは、麻布で育ったんだ」

 そう思うだけで、勇気が湧いてくる。まるで魔法の呪文。

 これが私が麻布で得た、いちばんの宝物。

 そしてその宝物は、時を経るごとに、私の中で、ますます輝きを増している。

 大きな価値があるものは、その全体像を捉えられるだけの大きな視野をもった人にしかわからないという矛盾が、常にある。たとえば親の価値。親にいちばん世話になっているとき、その価値はわからない。子どもがある程度成長して、親という存在の全体像を捉えられるようになってはじめてその価値に気付く。ここに、大きな価値をもつものほど、その価値を明らかにするまでに時間がかかるという法則が成り立つ。教育もその類のもの。教育を受けているときにはその本当の価値はわからない。

 私は麻布のたった6年間で、とてつもなく大きなものを得たのだと、やっとこのごろなってわかってきた。やっと麻布というとてつもない大きなものの全体像がおぼろげながら見えてきたのかと思う。

 麻布生として、私が創造したものというのはいくら考えても思いつかない。しかし、継承したものは、両手に抱えきれないほどに大きい。

 

<おまけ>

 

 仕事柄、麻布がどんな学校だったかを聞かれることがある。そんなとき、いつも話すことがある。K先生の思い出だ。

 K先生は、私の学年の持ち上がりの、柔道の先生だった。ウガンダというタレントに似ていたため、私の学年では「ウガ」というあだ名がつけられていた。屈強な肉体といかつい顔つきとは裏腹に、いつもほがらかで、やさしい先生だった。

 中2の時、私と同じサッカー部のY君が、ふざけて私の頭にチューイングガムを押し付けた。髪の毛に絡まり取れなくなり、ウガがはさみで髪を切ってくれた。翌日、私はY君の頭に、弁当に入っていたイチゴを乗せ、押し付けてつぶしてやった。Y君の額をイチゴの汁が伝う。Y君も納得したように笑った。

 Y君と私は親友になった。しかし、中3の時、Y君は万引きを常習するようになった。集団で、派手に万引きし、戦果を転売し、現金化した。

 たぶん「やめとけよ」くらいのことは言ったと思う。でも、「オマエもやろうぜ」という誘いを断るのが、そのときの私にできた精一杯だった。

 当然いつかは捕まる。とうとうその日がやってきた。「ほら、言わんこっちゃない」。私は思った。相当の人数の友達が、捕まった。もちろんそれなりの問題にはなった。でも、停学者もなく、それぞれに反省をするということで、事態は収束していった。私も一安心した。

 そのときに、どんなドラマがあったのかを知ったのは、2010年春、ウガの通夜の後だった。

 焼香を済ませた後、私たち92年卒は、寺の近くの焼肉屋で食事した。ウガの死に、あまりに現実味が感じられず、普通の飲み会のようなムードで飲み交わした。場所を居酒屋に移し、続けて飲んだ。そのとき、いつもはやかましいY君が、ほろりと涙を流し、告白を始めた。

 

 オレが万引で捕まったとき。両親が呼び出されて、面談をしたんだよ。オレはもう退学になる覚悟だった。のっけから、両親はただ、ご迷惑おかけしましたって、平謝り。うちの子が……申し訳ございません。これから厳しくしますので、どうか……。という感じ。

 でも、そのときウガが言ったんだ。

 「お父さん、お母さん。さきほどから、Y君のことばかりを責めますが、ちょっと待ってください。Y君が、なぜこういうことをしてしまったのか。そのことを考えましたか」

 両親は、何を言われているのかまったく理解していない様子だった。

 「お父さん、お母さん。Y君が、なぜこのようなことをするしかなかったのか、胸に手を当てて、よく考えてみてください」

 ウガはそう言ったんだ。

 「な、Y。オマエはほんとはとってもいいやつだよな。オレはよくわかってる。だから、お父さん、お母さん。もうY君を責めるのはやめてください。そして私に任せてください。Y君なら絶対に大丈夫ですから」

 ウガはそう言って、その面談を終えたんだ。

 今だからいえるけど、当時、オレは、「もっと勉強しなさい。○○君はもっといい成績なのに情けない」と親から叱られてばかりいた。それでストレスを抱えていたんだ。ウガはそれを見抜いたんだ。

 それからウガの更正プログラムが始まった。といっても、1週間に1回、決められた時間に体育教官室に来いというだけ。そこで何をされるのかとオレは身構えていたんだけど……。

 「よし、これから毎日、腕立て伏せを10回やりなさい。それをこれに記録しなさい」

 ウガはそう言って、オレにノートを渡しただけだった。

 オレは言われたとおりに毎日10回腕立て伏せをして、それを記録して、また1週間後、体育教官室に行った。

 「よし、今週は毎日20回!」

 毎回回数が増えていくけど、それだけ。そしてそれが数カ月続いた。

 数カ月後、いつものように体育教官室に行くと、ウガが「お、ちょっとたくましくなってきたんじゃないか」って笑うんだ。

 オレはそれがうれしくて、うれしくて。それだけで、本当に自信がついた。

 そしたら「もう、来週から来なくていいよ」って。「もう大丈夫だろ」って。

 ウガのおかげで、オレは立ち直れたんだ。そうじゃなかったら、今ここにいないと思うよ。

 

 その場には卒業後も頻繁に顔を合わせる仲のいいやつらが、8人いた。当然野郎ばかり。でも、Y君の話を聞きながら、全員が、無言で、泣いていた。あのとき、そこまでのドラマがあったということを、Y君の親友を自称する私でも知らなかったけれど、ウガなら、そういうことをしただろうということには、誰もがうなずけた。ただし、ウガが特別だったわけではない。今思えば、麻布の先生たちは私たちを本当におおらかな目で見守ってくれていた。

 ウガの笑顔がもう見られないことはさみしかったし、悔しかったけれど、でもそれ以上に、みんな、感謝の気持ちに満たされていた。居酒屋の座敷席で、私たち野郎8人は、そのまま数分間、肩を震わせて泣いた。そして、恩師を思い、ともに涙を流せる仲間がいることが、私には誇らしくてしょうがなかった。

 麻布らしいエピソードとして、私はいつも、このことを話す。そして、いつも涙をこらえられなくなる。今も。